- 2012/05/18(金) 13:32:05|
- シベリウス 交響曲第2番|
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1970年、来日公演のライブ録音。会場の雰囲気は乏しいけれど、生々しくて克明。オーケストラのやっていることが如実に伝わってくる。
セルの残した録音をいろいろ聴いてみると、オーケストレーションに手を加えた演奏があったり、あるいは繊細感を追求したものがあったり、エキセントリックに激しいものがあったりと、多面性をうかがい知ることができる。
そんな中、この演奏は、積極的に変化がつけられているものの、楽曲の姿を精確かつ明解に表すことに徹しているように聴こえる。もちろん演奏から演奏者の色を消し去ることはできないけれど、この演奏にキャラ作りの意識は感じ取れない。
均質で透明度の高いサウンドは他者と比較したときの顕著な特徴だけど、それだって雑味を取り除いた結果のように聴こえる。
音楽を息づかせるために、緩急・強弱のコントラストを積極的につけているけれど、室内楽的なバランスを逸脱することはないし、目を引くような奇策もない。昔ながらの演奏技法を注意深く、絶妙の間合いで駆使している。
そんな風にやると普通は個性と面白味の乏しい演奏が出来上がる。だから、わたしの知る限り、スター指揮者たちのほとんどは、作品の味わいを活かしながら、独自のキャラ付けに勤しむ。
しかし、この演奏はちゃんと絵になっていて、一旦聴き始めると最後まで持って行かれてしまう。セルは楽曲をそのまんまに演奏するだけで、楽譜の読み確かさとか、オーケストラを操縦する力とか、いわば演奏の基本事項の段階において、力量の違いを見せつけている。
やっていることはごく普通のことだけど、所作の一つ一つが凛としていて、なぜだか目が離せない、みたいな感じ。緊張感が高くて、一音一音に気迫がこもっていて、聴く者に迫ってくる。
個人的に演奏者の芸格の高さを満喫するだけで充分な演奏と思うけれど、セルの作品観について触れる必要がありそう。というのは、真っ向勝負の解釈には違いないけれど、シベリウスの音楽としては議論が分かれてしまいそうだから。
セルは音の線的な動きを明確に顕し、緊密に連動させていく。そのやり方自体はごく穏当なのだけど(特にドイツ・オーストリア系の古典的レパートリーにおいて)、セルは線の動きを重視する傾向が特に強くて、そのぶん音響効果の扱いは簡潔になっている。
顕著なのは第四楽章後半の長大な盛り上がり。音響の厚みと量感で盛り上げたくなりそうな場面だけど、セルはアンサンブルの見通しの良さを保ったまま、合奏の緊迫感でもって昂揚させていく。
シベリウスはけっこう音響効果に意を砕いていたようなイメージがある。もっとも、それをはっきりと感じ取れるのは第2交響曲より後に作られた作品で、円熟期の作品イメージにとらわれすぎてはいけないのだけれど、それにしても、楽器の音を重層的に響かせることによって生まれる微妙な色合い、みたいなものを感じにくいというか、むしろ能動的に排除している感じの演奏。
- 2012/05/13(日) 12:15:16|
- シベリウス 交響曲第2番|
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1964年のセッション録音。オーケストラが一体となって鳴り響く雰囲気はよいのだけど、甘口で柔らかい音質傾向が耳につく。旧フィリップスらしい耳当たりの良さだけど、癖の強い音質傾向ではある。
セルの演奏という意識を強くして聴くと、いつもと勝手が違う感じ。
あくまでもセルなりにだけど、積極的に音楽を揺さぶって、情熱的で芯の強い音楽を作っていく。セルのものと思われる唸り声が随所に入っていて、オーケストラに鞭を入れている。
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、おそらくこのオーケストラとしては引き締まり気味の演奏なのだろうけれど、当然ながらセルの手兵クリーヴランド管弦楽団とはキャラ的に大きく隔たっている。暖色系の響きで、各パートの音質は均質とは言えず、そのぶん色彩感は豊か。厚みがあって、開放的に柔らかく広がる。
おそらくセルはそのあたりを心得ていて、オーケストラの馬力とカラフルな表現力を活かす方向でアプローチしている。
高弦の気迫に充ちた切り込みとか、金管の生々しい鳴りとか、能弁で風味豊かな木管とか。
確かにクリーヴランド管弦楽団を指揮するときとはちがうけれど、サウンドを引き締めて、切れとか鋭さでもって劇性を生み出すところはこの指揮者らしい。盛り上がる場面では思い切りよく畳み掛ける。アグレッシブであるぶん、オーケストラをドライブする並外れた力量が如実に伝わってくる。
音響効果やムード的な表現に流れることもない。というか、らしい響きや雰囲気への配慮はあるとしても、音楽の輪郭や音の動きを明確に響かせた上でのこと。
セルのシャープでしなやかなフレージングや小気味の良いリズムやすっきりとしたサウンドバランスなんかはシベリウス向きだと思うけれど、"北欧の抒情"的な質感や幻想性に浸れるような甘口の演奏ではない、と思う。また、スケールが小さいわけではないけれど、壮大な音響を奢る趣味は感じられない。
ただ、冒頭に書いた録音の傾向が、セルの演奏を裏切っているように聴こえる。セルは硬骨で求心的な音楽をやっているけれど、聴こえてくる音の傾向は甘くて拡散的。演奏のコンセプトと噛み合っていないし、アンサンブルの切れ味を損なっているのではないか。実演を聴いたわけではないから、想像にすぎないのだけど・・・
- 2012/05/10(木) 22:10:22|
- シベリウス 交響曲第2番|
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1986年のセッション録音。
ベルグルンドによる3つの交響曲全集の2番目。
造形は引き締まっていて、アンサンブルにそれなりの機動力はありそうだけど、サウンドは溶け合うようにブレンドされていて、ディテールはくすみ気味。ホールの特性とか録音のやり方の影響なのだろうか。
もっとも、涼しげな音色と、柔らかくかつスケール豊かな響きはそれらしく聴こえる。
そんなサウンドのせいもあるし、演奏者の表現力も関係していると思うのだけど、音楽の表情がビシッと決まらない。静まりきらない静寂とか、遊びを残した緊張とか、そんな感じ。
また、個々のパートが露出する場面が多い楽曲だけど、ケチをつけるような目立つ粗はないものの、ハット息を飲むような瞬間もない(個人的に)。
ふだん聴いている演奏を基準にすると、この演奏には詰めきれないもどかしさを感じる。
ベルグルンドがやろうとしている音楽には納得できる。というか、シベリウスのイメージしていたのはこんな音楽なのかもしれないと思わせるものはある。
だったらそれで良さそうなものだけど、シベリウスの音楽としてどうこう言う以前に、指揮者にもオーケストラにもときめかされるような技とか芸を感じられない。かといって、それらを補うような強い思いがみなぎっている風でもない。誠実な姿勢は伝わってくるけれど。
- 2012/05/06(日) 21:46:03|
- ブラームス 交響曲第4番|
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1986年、来日公演のライブ録音。
遅いテンポに彫りの深い表情。そして鳴り渡るたっぷりとした美音。ミュンヘン時代のチェリビダッケらしいアプローチだけど、誇張と感じられる要素は案外と少ない。
テンポは他と比較してかなり遅いけれど、作品の入り組んだ書法を解きほぐして、聴き手に念を押すように響かせるためのテンポ設定と考えれば、納得できる範囲。そして、楽章単位で聴いても、全曲を俯瞰しても、遅いなりに造形は端整でバランスはとれている。
聴かせどころでタメを効かせるけれど、全体のペースが遅いために、誇張というほどには目立たない。
チェリビダッケは自分の美意識を前面に出す指揮者だけど、特定のパートを誇張したり、逆に音を剪定したりというやり方ではない。作曲者が記した音を余すことなく、とことん磨き上げることで独自の世界を形作る。
そして、チェリビダッケとこの交響曲の相性はとてもいいように感じられる。ここでも彼は遠慮なく自分流を貫いているけれど、上に書いたとおり作品イメージから乖離していないようだし、それどころか作品の緊密で洗練された書法をわかりやすく提示してくれる。
作曲者がイメージしていたのは、もっと引き締まって、流動性の強い音楽だったと想像するけれど、そのように演奏されると精妙なオーケストレーションが走馬灯のように流れてしまう。それはそれで気持ちよいのだけど、ときにはブラームスの彫琢ぶりをじっくりと堪能したくなる。
じっくりと構えたような演奏は他にもあるけれど、線の一本一本をぼってりと肥大化させて、大河ドラマっぽく滔々と流されてしまうと、(個人的には)ブラームスらしくなくなる。その点、チェリビダッケは、むしろ作品の書法の端整さ、見通しの良さを最大化させる方向に拡大している。
安全運転志向ではなく、意欲的に自分たちの音楽を仕掛けているように聴こえる。その分粗さはあるけれど、気に障るような瑕にはなっていないし、みなぎる気迫が気持ちいい。
終楽章の後半部分は技巧的で変化に富んだ音楽だけど、最後の最後でぶった切られたような後味になりがち。チェリビダッケは、音響の濁りを抑えながら、深い呼吸で一拍一拍に気合を込めるように畳み込む。勝利を歌い上げるような高揚感とは別種の、何かをやり遂げたような達成感があってスカッとする。個人的には、微妙な後味にこそブラームスらさを感じるのだけど、この演奏の気持ちよさを否定できない。
別掲の1974年盤(シュトュットガルト放送交響楽団)とは甲乙つけられない。
来日ライブの方が、表現の彫りは一段と深くなり、サウンドは厚みとスケールは増して、巨匠っぷりの良さでは圧勝かもしれない。しかし、この交響曲は重厚長大にやればやるほど良くなる、というものではないだろう。
というか、方向性に共通項はあるけれど、それぞれを聴くときには、別種の楽しみを期待する。わたしの中でこの2つの演奏は、優劣を云々するような位置関係にはない。
- 2012/05/04(金) 15:30:00|
- 音楽のこと|
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父親も、そのまた父親も、加齢とともに補聴器の世話になった。耳に遺伝があるとすれば、わたしもそうなる可能性は高い。クラシック音楽が大好物のわたしには、看過しがたい将来の不安だ。これが、せっせと聴いて感想をブログに残している動機のひとつだったりする。
将来の不安と言ったけれど、難聴の域に達しなくとも、聴力は加齢とともに確実に衰えていくとのこと。これは、老眼の域に達しなくとも、20歳前後から瞳の調節力の老化が始まるのと同じ理屈か。
ふと気になって、インターネットで公開されているフリーの音源を使って、お手軽に聴力をチェックしてみた。
加齢による聴力低下は、一般に高音域から進行するらしい。人間の耳はもともと20Hzから20000Hz(20kHz)の音を聞くことができるのだけど、30〜40代のどこかのタイミングで15000Hz以上はほとんど聴こえなくなるらしい。
チェックすると、わたしの耳も着実に衰えている。それでも14000Hzを聴くことはできたので、今のところは人並みの老化におさまっていると思いたい。
ちなみに、歌声や楽器の中で10000Hzより高い周波数なのはシンバルくらいのようだ。周波数でみると、歌声は100Hzから1000Hz(1kHz)の範囲を若干超えるくらい。案外と狭い。わたしの現在の嗜好の中では、ルネサンス期のアカペラを一番長く楽しめるということか。
しかし、安心するのはまだ早かった。さらに調べると、たとえ聞き取れる周波数の音であっても、感度は着実に低下するらしい。特に1000Hzより高い音域への感度はゾッとするくらい着々と劣化するらしい。
やはりインターネットで加齢による聴力低下を表したグラフを見たところでは、フルオーケストラを高音域から低音域まで適切なバランスで聴き取れるのはせいぜい30代まで。50代以上となると、1000Hzより高い音域への感度劣化ははっきりしてくる。わたしは50歳に近い方の40代。ここのブログで、録音の音質について「音の抜けが悪い」などと厚かましく書いているけれど、実はわたしの鼓膜が張りを失っているだけかもしれない。人の感覚なんて怪しいものだ。
ところで、以前にウィキペディアの「残響」の頁を閲覧したら、新生児は直接音と反射音を区別できないらしい。脳が学習することによって識別できるようになるらしい。ということは、人は耳に入ったそのままの音ではなく、脳による編集済みの情報を聴いているということで、言い換えると音の聴こえ方はある程度属人的ということのようだ。
脳と音楽との関係を考えるなら、ベートーヴェンやスメタナのような、晩年聴力を失った大作曲家の存在は興味深い。彼らは聴力抜きで歴史に残る名曲を作曲した。それを可能にしたのは、耳が聴こえなくとも鳴り響く音楽を明確にイメージできるほどに習熟した脳の働きだろう。
彼らはありふれた存在ではないから、一般化してとらえるのは妥当ではないかもだけど、数十年に渡って音楽鑑賞に勤しんできた愛好家の脳内にも、作曲家たちよりはるかに貧相であるとしても、類似の回路が出来上がっている可能性はある。だとしたら、聴力が少々衰えても、聴覚の劣化を脳が自動補完してくれて、案外と音楽を楽しめるのかもしれない。趣味としては、それで充分かもしれない。
こんな風に考えてみると、「アナログかデジタルか」「リマスターによる音質の差異」「ケーブルで音が変わるのか」みたいな微妙な論点を40代以降の人たちが論じても、劣化した聴力と脳内回路の個人差に歪められた、うさんくさい議論になりそう。
いや、人様のことはよいとして、既に聴力の劣化は進行中なのだから、今のうちに少しでも「いい音」を聴いて、脳の情操教育に努めるべきかもしれない・・・のだけど、振り返ってみると古い録音ばっかり聴いている今日この頃だ。そのうち何を聴いても古いモノラル録音に聴こえてしまったりは・・・しないだろうけど。
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