ベートーヴェン 交響曲第9番『合唱』 クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団 (1960 ライブ)

  1. 2013/01/03(木) 06:00:00|
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1960年のライブ録音。モノラル。高低の伸びは物足りないけれど、聴こえる帯域に関しては良好。響きがうねる感じはかろうじて伝わってくるし、内声部の表情づけなどまで聴き取ることができる。



ピリオド楽器・奏法による復元が進む今日では、旧時代の作品像と言えそう。とは言いながら、彼も人の子だから時代の影響を免れないだろうけれど、楽曲の成り立ち・仕組みをそのまま音として聴かせようとする彼のアプローチは、時代の流行り廃りの影響を受けにくいような気がする。

モティーフが組み合わされ、高層に組み上がっていくメカニズムにこそこの交響曲の醍醐味があると見なすならば、クレンペラーのアプローチは作品の本質を端的に突いている、と思う。
一方、全人的なテーマ性とか、音のイリュージョンをこの交響曲に求めるなら、クレンペラーの演奏にそういう要素がないとは言わないけれど、特に彼の演奏を選ぶ必要はないと思う。

楽曲のメカニズムを聴かせるのはクレンペラーだけではない。
ただ、この指揮者は、名曲のメカニズムの見事さに自ら感銘し、何よりもそのことの素晴らしさを聴く者に伝えたい、という情熱を持っているような気がする。このあたりは、作曲家であろうとしたこの指揮者のこだわりかもしれない。
いずれにしても、彼の演奏において、楽曲のメカニズムの表出が最優先事項であるように感じられる。
そして、それゆえに、大ぶりな音響にもかかわらず、ソリッドな音楽と感じられる。

録音の制約があるので断言できないけれど、この演奏もそういう種類のアプローチと思われる。
そして、これまた録音の制約があるので断言できないけれど、充実度の高さと感興の点で、特に聴き映えのする演奏だと思う。



第一楽章から終楽章まで、指揮者もオーケストラも一貫して気合が乗っていて、しかし気負いは感じられない(終楽章の独唱陣には気負った感じがあるけれど)。

秩序を厳格に構築しながら、大きな情熱とエネルギーを放射している。品格ある静と威風堂々とした動が同時並行で成り立っていて、この充実した手応えは、他では得がたいものと思う。

イマジネーションを掻き立てるタイプの解釈ではなく、音楽を有機的に増殖させ展開させて行き、その活気とか、変化の妙味とか、運動性とか、秩序や調和の佇まいとかで聴く者を牽引していく。



そして、ウィーンの聴衆を意識してのことなのか、弦楽器をいつもより歌わせるなど、彼としては濃い目の味付けを施しているところが、数あるクレンペラーの第九の中での、この録音のおもしろさ。

第三楽章を流れるように速いテンポで進めるのはいつものことだけど、弦の歌が濃い目で、ちょっとした違いなのだろうけれど、少し印象が違って聴こえる。良し悪しとは別の次元で。

終楽章のエンディングでは、怒涛の高まりの中で、ヴァイオリンが突き抜けるように大見得を切る。大見得といっても、秩序を乱さない範囲で、いつもより強めにやっている程度のことだけど、この演奏にかける意気込みがビンビンと伝わってくる。

スメタナ 連作交響詩『わが祖国』 レヴァイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2012/12/20(木) 06:00:00|
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1986年のセッション録音。



米国出身の大指揮者が、西欧の名門オーケストラを指揮して、ドラマティックで濃厚な『わが祖国』を聴かせる。

『わが祖国』なんていうタイトル、愛国的な内容から、異国の演奏者が楽曲のドラマの世界に入り込むのはためらわれそうだけど、米国出身の指揮者がそんなことで物怖じしていたら、何もできなくなってしまう。なんてことをレヴァインが考えたかは分からないけれど、劇場仕込みの表現力で描き切っている。



量感たっぷりの厚い響き、生々しい金管群、野太い打楽器。粘り気のあるウィーン・フィルのアンサンブルがあいまって、厚い響きがホール内をダイナミックにうねるよう。

楽曲のテクスチュアを精妙に織り上げるというより、オーケストラを物々しく、派手に鳴らして、ドラマティックな展開を強く打ち出すような様子。

響きの透明度はあまり感じないけれど、かと言って音が被さりあったり濁ったりすることはなく、鈍重な音楽にはなっていない。レヴァインの捌きのうまさを感じる。



大河ドラマ風で粘っこい味付けは好みが分かれるかもだけど、叙事詩的な交響詩の方が映えるアプローチだと思う。思い切りよいオーケストラ・ドライブは迫力満点。
ただし、その屈託を感じさない派手な鳴らしっぷりは、かえってシリアスな気分を損なうように聴こえる危険性あり。

「自然とか景色を描き出す」系の交響詩の場合、イメージされる光景は本場物の演奏とは異なる。風は暖かく感じられるし、さしかける日差しは強そうだし、草原の緑も鮮やか。
というか、オーケストラを景気良く鳴らしすぎて、そもそも自然とか光景をイメージしにくかったりする。

レヴァインは、もしかしたら標題性にはこだわらずに、スメタナの起伏の大きなオーケストレーションをダイナミックに息づかせることに専心しているのかもしれない。


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チャイコフスキー 交響曲第6番『悲愴』 フリッチャイ / ベルリン放送交響楽団

  1. 2012/11/26(月) 20:03:21|
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1959年のセッション録音(ステレオ)。録音後長らくお蔵入りになっていたものが、1996年にリリースされて話題になったらしい。
録音会場(イエス・キリスト教会)の特性か、うねるような音響。それでいて、こもった感じはないし、ディテールまで聴き取れる。優秀な録音。



間合いをたっぷりととった、大きな身振り演奏。渾身のダイナミックな表現を繰り広げている。ドラマ性をとことん追求したような解釈だけど、陽性のドラマではなく、雄渾で青白い悲劇。

その特徴がわかりやすいのは第二楽章。ワルツのリズムとほの暗いフレーズが入り交じる楽曲だけど、リズムの軽快感より、腰の入った深いフレージングが強く訴えてくる。

フリッチャイは第一楽章に不満があって発売を保留していたらしい。
そう言われると一部に粗さがあるような気はするけれど、それはそれとして、一発勝負のような鬼気迫る表現で、異様な迫力がある。



表情は濃いけれど、そこに甘味成分は含まれていない。リズムには手応えがあって、フレージングには芯があって、サウンドの色彩感は乏しい。感傷やメロドラマ臭は感じられない。厳しい音楽をやっていると思う。
また、録音会場の音響特性ゆえか、うねるような響き具合で、物々しい雰囲気を醸し出している。しかし、厚ぼったい音作りではなく、弦が強めながら、整ったサウンドバランス。

そういうことが影響しているのか、濃い演奏ではあるけれど、濃厚風味というのではない。繰り返し聴いて、もたれる感覚はしない。



一途でシリアスな凄みの反面、武骨で色彩はくすみ気味。"融通無碍のうまさ""小技の冴え"みたいなものは乏しくて、聴きようによっては、偶数楽章はいささか剛直に聴こえるかもしれない。

ここに《悲愴》交響曲のすべてがあるとは思わないけれど、この交響曲の劇性を引き出した演奏として、おそらくは特筆すべき録音なのだろう。


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年齢をかさねて耳が衰えるまでに・・・

  1. 2012/05/04(金) 15:30:00|
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父親も、そのまた父親も、加齢とともに補聴器の世話になった。耳に遺伝があるとすれば、わたしもそうなる可能性は高い。クラシック音楽が大好物のわたしには、看過しがたい将来の不安だ。これが、せっせと聴いて感想をブログに残している動機のひとつだったりする。

将来の不安と言ったけれど、難聴の域に達しなくとも、聴力は加齢とともに確実に衰えていくとのこと。これは、老眼の域に達しなくとも、20歳前後から瞳の調節力の老化が始まるのと同じ理屈か。
ふと気になって、インターネットで公開されているフリーの音源を使って、お手軽に聴力をチェックしてみた。

加齢による聴力低下は、一般に高音域から進行するらしい。人間の耳はもともと20Hzから20000Hz(20kHz)の音を聞くことができるのだけど、30〜40代のどこかのタイミングで15000Hz以上はほとんど聴こえなくなるらしい。
チェックすると、わたしの耳も着実に衰えている。それでも14000Hzを聴くことはできたので、今のところは人並みの老化におさまっていると思いたい。
ちなみに、歌声や楽器の中で10000Hzより高い周波数なのはシンバルくらいのようだ。周波数でみると、歌声は100Hzから1000Hz(1kHz)の範囲を若干超えるくらい。案外と狭い。わたしの現在の嗜好の中では、ルネサンス期のアカペラを一番長く楽しめるということか。



しかし、安心するのはまだ早かった。さらに調べると、たとえ聞き取れる周波数の音であっても、感度は着実に低下するらしい。特に1000Hzより高い音域への感度はゾッとするくらい着々と劣化するらしい。


やはりインターネットで加齢による聴力低下を表したグラフを見たところでは、フルオーケストラを高音域から低音域まで適切なバランスで聴き取れるのはせいぜい30代まで。50代以上となると、1000Hzより高い音域への感度劣化ははっきりしてくる。わたしは50歳に近い方の40代。ここのブログで、録音の音質について「音の抜けが悪い」などと厚かましく書いているけれど、実はわたしの鼓膜が張りを失っているだけかもしれない。人の感覚なんて怪しいものだ。



ところで、以前にウィキペディアの「残響」の頁を閲覧したら、新生児は直接音と反射音を区別できないらしい。脳が学習することによって識別できるようになるらしい。ということは、人は耳に入ったそのままの音ではなく、脳による編集済みの情報を聴いているということで、言い換えると音の聴こえ方はある程度属人的ということのようだ。

脳と音楽との関係を考えるなら、ベートーヴェンやスメタナのような、晩年聴力を失った大作曲家の存在は興味深い。彼らは聴力抜きで歴史に残る名曲を作曲した。それを可能にしたのは、耳が聴こえなくとも鳴り響く音楽を明確にイメージできるほどに習熟した脳の働きだろう。
彼らはありふれた存在ではないから、一般化してとらえるのは妥当ではないかもだけど、数十年に渡って音楽鑑賞に勤しんできた愛好家の脳内にも、作曲家たちよりはるかに貧相であるとしても、類似の回路が出来上がっている可能性はある。だとしたら、聴力が少々衰えても、聴覚の劣化を脳が自動補完してくれて、案外と音楽を楽しめるのかもしれない。趣味としては、それで充分かもしれない。



こんな風に考えてみると、「アナログかデジタルか」「リマスターによる音質の差異」「ケーブルで音が変わるのか」みたいな微妙な論点を40代以降の人たちが論じても、劣化した聴力と脳内回路の個人差に歪められた、うさんくさい議論になりそう。
いや、人様のことはよいとして、既に聴力の劣化は進行中なのだから、今のうちに少しでも「いい音」を聴いて、脳の情操教育に努めるべきかもしれない・・・のだけど、振り返ってみると古い録音ばっかり聴いている今日この頃だ。そのうち何を聴いても古いモノラル録音に聴こえてしまったりは・・・しないだろうけど。

ブラームス 交響曲第4番 トスカニーニ / フィルハーモニア管弦楽団

  1. 2012/04/28(土) 14:40:54|
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1952年のライブ録音。響きに潤いを感じさせるモノラル録音。会場の雰囲気はまずまず伝わってくる。



楽譜を見ながら演奏を聴かないので伝聞情報なのだけど、トスカニーニは楽譜の指示にしたがって精確に演奏しているらしい。
一方、演奏者の裁量に委ねられる領域では、楽曲の書法をとことん明解かつ鮮烈に響かせることに徹している。

理屈の上では楽曲の実相に迫れそうなやり方だけど、楽曲はまばゆいばかりの鮮烈さに集約されがちで、作品ごとのテイストの差異なんてものを感じにくい。

トスカニーニはムードに流れない音楽作りをしている。しかし、そのようなアプローチをとったとしても、音楽は何らかの雰囲気をまとう。張りと艶のある鳴らし方や、ときにヒステリックに聴こえるくらいの切れ味が、そのまま音楽の佇まいとして映し込まれている。
そういう雰囲気、鮮烈な色彩感とか、息詰まるような緊張感とか、メリハリの強さとかが楽曲の雰囲気とふさわしく感じられるかが、大きな分かれ目になりそう。

ただし、良くも悪くも"公式見解"としての堅苦しさを感じさせるNBC交響楽団とのセッション録音と違って、この演奏には一世を風靡したスター指揮者ぶりを偲ばせる艶とか柔軟性を感じる。トスカニーニ贔屓とは言えないわたしにも近づきやすい。



この交響曲のような、それだけでも楽しめるくらいに書法の熟成度が高い楽曲は、トスカニーニに向いていると思う。というか、オーケストラ指揮者としてのスペックの異常な高さを見せつけられる思いがする。

聴いていて、この交響曲の書法の半端ない洗練を、真のポテンシャルを、改めて教えられているような心持ちになった。あるいは、薄々感じていたことをまざまざと見せつけられた。これが楽譜どおりの演奏だとしたら、それまでに聴いてきた巨匠+名門オーケストラの多くは(すべてではない)、ブラームスの書法をさばききれていなかったことになりそう。

弦を前面に出してたっぷりと美しく歌わせ、メロディ主体に聴かせる演奏を多く耳にする。弦の歌は美しくとも、この手の演奏では往々にして内声部が骨抜きにされ、結果色彩感や変化が乏しくなってしまう。トスカニーニの演奏の前では、お茶を濁しているようにしか聴こえない。
トスカニーニは、各パートを等価に扱いながら、その瞬間瞬間でもっとも鮮やかに映える音の配合を選び取ってくる。そして、高性能かつしなやかなフィルハーモニア管弦楽団が、絶妙のブレンド感を聴かせる。颯爽としたテンポにのって、めくるめくように色合いを変化させていく。その鮮やかなこと。



この録音には致命的とも思える瑕がある。第四楽章序盤に数回大きな雑音が入る。妨害のために爆竹が鳴らされたとのこと。それに動揺したのか(あるいは無関係なのか?)、中間部の静かな場面で木管等の若干の乱れを感じるけれど、終盤の畳み掛ける気迫はすさまじい。心ない行為が演奏者たちの闘志に火をつけたかのように、一丸となって燃え上がっている(ように聴こえる)。

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