ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 ゲルギエフ / マリインスキー劇場管弦楽団他

  1. 2013/03/10(日) 06:00:00|
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2011〜12年のセッション録音。『ニーベルングの指環』四部作の第一弾とのこと。



ワーグナーの楽劇というと、オーケストラが生み出す音響の巨大な渦の波間で声を張り上げる歌手たち・・・という図式が頭に浮かぶ。
ゲルギエフはそういうワーグナー観の真逆を行っている、ように聴こえる。
オーケストラは、音量の点でも雄弁さの点でも、歌唱陣を圧倒することなく、対等に協調しながら楽劇を形作っていく。

オーケストラの編成が(ワーグナーにしては)コンパクトであるように聴こえる。これまで聴きなれてきた響きのバランスを基準にすると、高弦は線が細いし、低弦は薄いし、木管の露出度が高いように聴こえる。

大音響の官能は乏しいけれど、それでもこの歌唱と管弦楽のバランスにはメリットを感じる。
威圧感のない管弦楽により、音楽の風通しが良くなる。そして、歌手たちは過剰に声を張り上げる必要がない。
特に情念が重苦しく渦巻くような第二幕は、いつもより聴き通しやすいだけでなく、作品の機微が明解に浮き上がってくるような感触を覚えた。



ゲルギエフはオーケストラの響きをシェイプアップした上で、繊細かつウェットな表現を繰り広げている。

わかりやすいところで、「ヴォータンの告別」あたりは、神話的な偉容はほとんど感じられなくて、ひとりの男の悲嘆をしっとりと奏で上げていく感じ。
ゲルギエフが聴かせる細やかさは、響きの上での繊細感にとどまらず、楽曲に感傷的な相貌をもたらしている、ように感じられる。

一方、神話とかファンタジーの気分は乏しいように感じられた。
もしかしたら、情緒性とか抒情性が優先された結果、良くも悪くも"人間的"な側面が強調されすぎて、神々の物語としての偉容を殺いでいる、と言えるのかもしれない。



ゲルギエフのコンセプトは、歌唱の聴き方にも影響してくる。
たとえば、ヴォータンを演じるパーペから神々の長らしき風格を感じられないけれど、この『ワルキューレ』の中では、そういうことは問題と感じられない。むしろ、朗々と歌い上げる方が浮いてしまいそう。



奏でられる音楽自体は攻撃的ではないけれど、ゲルギエフのアプローチは大胆かもしれない。少なくとも、作品像を彼の感性で徹底的に洗い直し、作り込んでいる、と思う。
その手並みは徹底かつ洗練されていて、演奏として充実している。演奏芸術しては優れ物だろう。あとは聴き手の好み次第だろう。

ワーグナー 「ヴォータンの告別」と「魔の炎の音楽」(『ワルキューレ』より) クレンペラー / ニュー・フィルハーモニアo

  1. 2011/11/05(土) 13:25:00|
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1970年のセッション録音。独唱はノーマン・ベイリー。
音はよく広がるけれど、混濁していて聴き苦しい。メジャー・レーベルのセッション録音とは信じられない酷さ。

同じ時期に『ワルキューレ』第一幕が録音されている。

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ワーグナーが書いた音楽の中でも、もっともすばらしい音楽の1つと思う。奇跡に立ち会っているかのような大きな感動がある。

クレンペラー最晩年の録音は、この音楽を味わう目的で聴くには適当ではない。合奏精度がユルユルなこともあるけれど、いただけないのは"ここ一番"でのタイミングのずれ。劇音楽ではかなりイタイ。

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それでも、この演奏から受ける感銘は大きい。それは、わたしがこの指揮者に寄せる思い入れのせいかもしれない。彼の残した数々の録音からドイツ音楽の魅力を教わったから。

象徴的なのは、「魔の炎の音楽」において「まどろみの動機」が繰り返される終結部。金管が荘重に「ジークフリートの動機」をなぞった直後に、もともとゆっくりなテンポをグッと落とす。音楽は流れているけれど、時間が止まったような錯覚にとらわれる。そして、ワーグナーの多様な管弦楽が解きほぐされたようになり、1つ1つのパートが穏やかに、慈しむように、懐かしむように、淡々としかし濃やかな表情を呈する。頭の中が真っ白になって、深い感慨に包み込まれてしまう。
これはなんという効果なのだろう。他にもあるのかもしれないが、わたしは知らない。

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『ワルキューレ』の物語に根ざした演奏効果のようには聴こえない。描写的な演奏ではないと思う。ロマンティックな解釈ではないと思う。
ここに色濃くにじみ出しているのは、神々の長ヴォータンの心情というより、クレンペラーが『ワルキューレ』の音楽に寄せる思いではないだろうか。その音楽の素晴らしさ美しさに新たな感動を覚え、その感動を溢れるままにしている。そんな印象を受ける。

クレンペラーのもともとの音楽性を考えるとそれは衰えであって、実際この演奏のあちこちにほころびがある。
それでも、長く彼の演奏を聴いてきた者として、強く打たれるものがある。こんな形で、感情に直接訴えかけてくる演奏を聴かされることになろうとは。

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上に書いたことは推断と妄想。他の人がこの演奏を聴いて、同じ感慨を覚える可能性は低いかもしれない。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 カイルベルト / バイロイト祝祭管弦楽団

  1. 2011/05/31(火) 23:54:45|
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1955年のライブ録音。ステレオ録音。

古いステレオ録音ながら、鮮度の高い音質に驚嘆。50年代にバイロイトで活躍した名歌手たちを堪能したければ、最有力の録音。反則といいたいくらい。

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以前の記事にも書いたとおり、わたしは純粋なオペラ好きではないし、聴き方も偏っている。歌唱を必ずしも役柄とか場面に結びつけて聴いていない。どうせドイツ語を聞き取れないし、楽器の音に近い感覚で聴いている。

たとえば、ホッターの声の力には感服するけれど、ヴォータンはホッターに限るみたいなこだわりはないし、ヴァルナイとニルソンのどっちがブリュヒルデにふさわしいか、みたいなことにも無関心。

というわけで、これは歌唱のウェイトがけっこうの高い演奏だけど、歌手について語れることはほとんどない。これといった不満を覚えなかったが、あえて言えばジークリンデ役のヴィブラートが気になったくらいか。

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カイルベルトの指揮はなかなか微妙なところ。

ぎりぎりのところまで切り詰めた意欲的なアプローチのようにも聴こえるし、手堅くまとめられた職人仕事と言えなくもないような。

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サウンドは強靭で引き締まっており、各パートを明解に鳴らし分けて、響きをブレンドさせない。サウンドの見通しはいいけれど、厚みとか音がうねるような効果は乏しいし、スケール感はほどほど。

各パートの表現は必要十分だけど、音楽全体は整然と進められる。聴かせどころに入っても、こぶしを効かせたりタメを作ったり、みたいなケレンは無い。感情表現が強まる場面でも、音楽の勢いに任せる程度で、積極的に煽ることをしない。

推進力は相当に強く、ときに荒々しく感じられるくらい。カイルベルトによる能動的な味付けと感じられるのはこの推進力くらいで、それ以外の面では禁欲的というか、彼なりに音楽その物に語らせようとする強い意志を感じる。演奏者による後付けの演出を廃するという意味で、カイルベルトのやり方はかなり徹底していると思う。

1950年代バイロイトというと、クナッパーツブッシュの濃厚で恣意的な『指輪』の印象が強かった。しかし実際のところは、同じ時期にカイルベルトがこんなにもクリーンで明解な『指輪』を響かせていたのだ。認識を改めなければならない。

40代で大ベテランと肩を並べて『指輪』を指揮するという大抜擢。もしかしたら、これは意欲的、野心的な演奏と言えるのかもしれない。

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カイルベルトが目指す方向性はわたしの好みだけど、問題なのは、そうした彼の企みが、音楽としての楽しさ・おもしろさをもたらしていると実感しにくいこと。作品の姿をすっきりと提示できているのは確かだけど、いくつかのすっきりしたワーグナー像をすでに知っている耳からすると、新鮮さや驚きを感じるほどではないし。

その結果として、彼のコンセプトが元々持っていた負の部分、ケレン味の無さが部分的に悪い方に出てしまった、と感じる。

たとえば第一幕の前半のような、特に聴かせどころというわけではない場面では、キリリと引き締まった歌手へのサポートぶりが気持ちよい。

ところが、聴かせどころとか管弦楽のみの部分になると、いささか薄くあるいは素っ気なく聴こえる。そのために、後味としては物足りなさが残る。

最大の聴かせどころであろう「告別」にしても、ホッターの伴奏と割り切って聴けばそれなりと感じられるが、管弦楽中心に聴くと酔えない。ここの音楽は、質実剛健というだけでは物足りない、個人的に。

技量の高さを聴かせながら、酔えるほどではないし、面白味に欠けるとしたら、結論としては「手堅い演奏」ということになるのか。

* * *

この録音の存在は、他の1950年代バイロイトの録音の鑑賞にいい影響を与えてくれそう。

古いモノラル録音を通してワーグナーの楽劇の演奏を語るなんて、本当は無理のあることだ。わたし自身は無理に語っているつもりはないけれど、無意識のうちに脳内でサウンドが補完されているだけのことだろう。よって、聴いたものの感想を書いているつもりでいながら、実際には妄想したことの記録と言うべきかもしれない。

この録音を知ったことで、わずかでも脳の補完システムが正しい方向に矯正されるといいのだけれど。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 クナッパーツブッシュ / バイロイト祝祭管弦楽団 1956年

  1. 2011/05/22(日) 13:54:04|
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1956年、バイロイト音楽祭のライブ録音。
ORFEO盤。やけに低音が分厚い録音なので、イコライザーで若干修正。歌に軸足をおいた録り方のようで、管弦楽は奥まって聴こえるけれど、それでも情報量は多い。


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一貫してゆっくりとしたテンポ。ノッシノッシと進行する。速いか遅いかより、リズムの重たさが気になる。もたつく感じがあるのは第二幕の冒頭ぐらいなので、遅すぎるテンポとは感じないけれど、全体にドラマとしての起伏や緊迫感は乏しい。

サウンドをブレンドしないで、音の断面を露出し、その動きのひとつひとつに意味を込めて鳴らす。一見雄弁っぽいけれど、管弦楽の質感は生々しくてゴツゴツとしており、モノラル録音であることを念頭に置いたとしてもサウンドの色彩感は乏しく、変化に富んだ表現とは言いづらい。全曲を重苦しさ・息苦しさが支配している。
まあ、明るくも楽しくもない物語なので、調子外れということはないけれど、音楽としてのドラマ展開の点で、武骨で鈍重な印象を拭えない。


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この重たいリズムだと、歌い手は演劇的な歌唱が難しいようだ。セリフというには端整な歌いっぷり。ただし欠点ということではない。こういうのもありかな、と思う。クナッパーツブッシュによるどっしりと濃密な表現に引っ張られてか、じっくりと克明に歌い上げられているので、そういう方向でのおもしろさを味わえる。

冒頭に書いた録音特性も手伝って、往年の名歌手たちの歌唱は迫力満点。特に第三幕のホッターの声や表現力には圧倒される。わたしは歌唱にさして関心のない者なので大したことを言えないけれど、クナッパーツブッシュ抜きで、歌唱のためだけに聴く価値があるかもしれない。


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クナッパーツブッシュの指揮について、上のとおり鈍重で柔軟性を欠くが、生ぬるいということは全くない。むしろ、気に入る気に入らないにかかわらず、異様な空気を放っている、と感じる。

演奏自体には気迫があって、畳み掛ける勢いはないかわりに、盛り上がる場面での音楽のうねりにはただならぬ迫力がある。濁流が渦巻くようで、一概に心地よいとは言えないけれど、思わず聴き入ってしまうような、ちょっとクセになりそうな感触。いずれにしても、クナッパーツブッシュのワーグナー以外では、あんまりお目にかかれない感覚と思う。
『ワルキューレ』という芝居のドロドロした面とか、その音楽が執拗に表現する情念とか激情とシンクロして、妙な説得力を発揮している、ような気がする。


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第一幕後半はゴツゴツしたり粘っこかったりで美しくない。第三幕の騎行はドスは効いているけれど格好良くない。魔の炎の音楽に解放感はなく(そもそもハッピーエンドではないけれど、聴き手を作品世界から解放する効果のある音楽)重苦しい。全般的にドラマの展開は鈍い。というように、物足りない点が少なからずある演奏。
が、やろうとしたのに力及ばなかったわけではなく、もともとそういう方向を向いている演奏ではなさそう。

抽象的な表現で恐縮だが、クナッパーツブッシュの音楽は、動的にドラマを語ることよりも、音による世界観を構築していく感じ。舞台上のドラマティックな展開を、一定の気分とか雰囲気が厚く覆っている。激しくて力強いけれど、音楽のあり方としては静的な感じがある。
そして、彼がもたらす暗いエネルギーが渦巻き噴出するような音のイメージには、創造神話における原初の混沌を連想させるところがあって、作品の世界観にハマっているような気がしないでもない。

そうだとしても、やっぱり『パルジファル』や『トリスタンイゾルデ』なんかと違って『ニーベルングの指輪』四部作は物語性が強い。世界観とともに、個々の場面ごとに場にふさわしい空気を醸してくれないと、物語は生き生きと回っていかない、と思う。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 クラウス / バイロイト祝祭管弦楽団

  1. 2011/05/19(木) 02:45:14|
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1953年バイロイト音楽祭でのライブ録音。もちろんモノラル。

当時のライブ録音としてはいい音と思うけど、クラウスはけっこう精妙な音作りをする人のようなので、再生には気をつかう必要がありそう。しっかり低音を鳴らしてやらないと、オーケストラは奥で小じんまりとまとまってしまう。
クラウスによる管弦楽は、歌唱を圧倒することはないけれど、サウンドには広がりが感じられる。そして、ここぞというときには鋭くすさまじい追い込みを聴かせる。

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1回目に聴いたときは「期待以上に良いなぁ」程度だったのが、2回、3回と聴くうちに、知る限りで最高レベルの『ワルキューレ』であるような気がしてきた。
歌唱陣に恵まれているのは間違いないけれど、この時にたまたま歌い手たちがそろって好調だったわけではなく、クラウスのバックだからこそ、彼らの魅力が引き立っているのではないだろうか。

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クラウスの棒は、素晴らしく明晰で切れ味がよい。古いモノラル録音だし、演奏会場の音響特性が独特なので、正確には分からないけれど、半端でなさそうなオーラが立ち昇っている。
それでいて、機械的な感触はまったくない。動きはしなやかで響きは艶やか。総じて速いテンポでテキパキと進行するけれど、あっさり味ではなくて、ロマンの香りが立ちこめている。
速いといってもインテンポではなくて、必要となればグッとテンポを落として雰囲気作りに転ずるから、そのあたりも濃やかさに貢献しているかも。

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クラウスによる管弦楽は、はっきりとしたキャラを持っていてかつ安定しているから、存在感を常に示している。しかし、音量としても表現としても歌唱を圧倒したり対立することがない。単に控えめというより、歌唱をひっくるめて音楽とかサウンドがイメージされている。
劇場指揮者としては当たり前のことのようだけど、ワーグナーの楽劇は管弦楽パートの充実度と重要性が一般の歌劇よりずっと高いから、案外とたがが外れやすい。指揮者がオーケストラをかき鳴らして歌手たちを圧倒し、歌手たちは負けじと声を張り上げて演技の余裕を失う、という構図はありがちなことだ。

たとえば第二幕。葛藤が入り乱れる重苦しい幕だけに、管弦楽は雄弁で迫力があるけれど、歌手たちは余裕を持って歌い演技していることが伝わってくる。
劇場の音響特性や音の録り方も関係しているだろうけど、クラウスは物理的に大きな音を出さなくとも迫力やら凄みを出す技を心得ているようだ。管弦楽は歌唱陣に対して控えめに振舞っているはずなのに、力強く雄弁にえぐってくる。切れ味と瞬発力の賜物か。

クライマックス、告別と魔の炎の音楽。クラウスは自在なたずなさばきで盛り上げていく。しかし、押すところ、引くところを完璧にわきまえている。管弦楽のみの部分は思い切りよく力を開放し、歌が入るとピタリと協調する。ただでさえ桁外れの表現力を持つホッターが、気持ち良さそうに歌い演じている。語っている、と形容したくなるくらいに。
どの演奏で聴いても感動的な場面だけど、この演奏は格別。それぞれが良い仕事をしているだけでなく、質の高い協同作業が感銘をより高めている、と感じる。

劇場指揮者としての職人芸に秀でているのは間違いなさそうだけど、クラウスはそこに止まっていない。そつなくまとまっているだけの音楽ではない。一貫した美意識とか洗練を感じることができる。クラウスの『ワルキューレ』と言えるものを持っている。

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クラウスの演奏ぶりは熟練と手際が際立っている。オペラ指揮者として、エンターティナーとしてツボを心得まくっている。反面、体当たりの演奏がもたらすようなスリリングな興奮は乏しいかもしれない。

また、そのしなやかで艶やかな質感を、ワーグナーらしくないと感じる人がいるかもしれない。

しかし、長くて大規模なワーグナーの楽劇の演奏において、これほどまでに安定して有能な指揮官はそうそういないのではないか、と思う。

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