シベリウス 交響曲第2番 オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団 (1957)

  1. 2012/06/17(日) 13:34:00|
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1957年のセッション録音。ステレオ録音。高音がきつめなのはちょっと残念。しかし、透明でありながら量感あふれるサウンドはとらえられている。



オーマンディには、カラッとして華やかなサウンドとか、フレージングの曲線美とか、技術的な完全性を前面に出してくる指揮者という印象がある。楽曲のイメージからすると場違いなくらいにあっけらかんと響くことがしばしばある。

この演奏も同じ調子だけれど、抜けるようにカラッとしたサウンドはともかくとして、曲線的で息の長いフレージングとか、豊かで透明度の高いサウンドとか、多彩で鋭敏なリズムの扱いとか、木管を朗々と歌わせる作法とか、多くの点で楽曲の持ち味とシンクロしているように聴こえる。

もともとオーケストラ・ドライブについては卓越した力量の持ち主なので、作品イメージと演奏者の持ち味がシンクロすれば強力。ことに第3楽章以降は圧倒的な出来栄えと思う。



こういうキャラの強いタイプの演奏だと、はじめはそのキャラが耳についてしまうけれど、慣れてくるとこの指揮者の懐の大きさが聴こえてくる(オーマンディに限ったことではない)。
というか、オーマンディは音楽の形を歪めることなく、すべての音のニュアンスを鋭敏にとらえ、くもりなく雄弁に鳴らしている。的確で明解なリズムとかアーティキュレーションに徹した演奏だけど、音楽の息遣いまでがその中に織り込まれていて、弦や木管の歌がスーッと入ってくる。



個人的に圧巻なのは終楽章後半、第二主題の再現からクライマックスに至る展開。
オーマンディは優秀なオーケストラを、切れのある多彩なリズムのさばきで縦横無尽にドライブしている。ホール内に充満するような大きな音響だけど、まったく塊状には響かない。音の透明度を保ったまま白熱し、鋭敏でダイナミックなリズムのコントロールが多様なニュアンスと雄渾な躍動を生み出している。

これはもう解釈云々ではない。ごくごく真っ当な解釈に基づきながら、並外れた表現力と演奏技術で他を圧倒している。こんな芸当をできるコンビが、他にどれほどあるのだろうか。

シベリウス 交響曲第2番 ザンデルリンク / ベルリン交響楽団

  1. 2012/06/09(土) 06:00:00|
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1975年のセッション録音。全集から。



本場物の演奏の後に聴くと、かなり独特。躍動しないリズム、流れないフレーズ、輪郭が強くて渋いサウンド、かっちりとした造形。ドイツ系の指揮者にも色々あるから、十把一絡げ風に言うのははばかられるけれど、やっぱりドイツ的な性格を意識させられる。

でも、繰り返して聴くうちに、納得させられてしまう。
ドイツ風の装いの内側あるのは、楽曲の構成や書法を画然と克明に描き出す、いってみれば知的なアプローチ。楽曲の成り立ちを明解に聴かせてくれる。
ディテールを聴かせる演奏は他にもあるけれど、音の輪郭やリズムの刻みをここまで画然と聴かせる解釈は希少なのではないだろうか。おかげで音響効果的な旨味は乏しくなっているけれど。

しかし、シベリウスの音楽をドイツ風の作法でさばいてみました、というだけの演奏ではない。わたしは、この演奏からザンデルリンクの楽曲に対する共感を感じる。理詰めでガチガチに固めながら、理屈で割り切れない領域では抒情が色濃い。特に木管群の素朴な歌いっぷりは、どこか野暮ったいけれど染みてくる。
終楽章後半、主題が繰り返されながら息長く高まっていく場面は、リズムを沸き立たせて興奮を煽るのではなく、祈る思いがひたむきに高まっていくかのよう。効果的なのかはわからないけれど、内省的な高まりは独特で、じんわりと効いてくる。



克明な表現を聴く限り、ザンデルリンクのオーケストラ・ドライブ力は高いように思えるけれど、音響の洗練を感じさせる域には達していない。というか、ぶっちゃけサウンドは美しくない(よく言えば渋い)。オーケストラの持ち味とか録音の影響はありそう。ただ、機会は多くないけれど、この指揮者の他の複数の演奏にも同じことを感じたから、ザンデルリンクに帰することかもしれない。

シベリウス 交響曲第2番 セーゲルスタム / ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2012/06/04(月) 06:00:00|
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2005年のセッション録音。セーゲルスタムによる2つめの交響曲全集より。



柔らかい音の出し方とかサウンドのブレンド感なんかはヘルシンキ・フィルっぽい気がするけれど(このオーケストラをそれほど聴いていないので自信はない・・・)、良くも悪くもローカル色に頼るような演奏ではなさそう。



骨組みは雄大指向。急がず、焦らず、大きな波を作り上げていく。といっても、骨太でも重ったるくもなく、アンサンブルの息は長いけれど、表情には俊敏さとか柔らかみがある。ときに繊細と感じられるくらいだけど、音楽の構えが大きいせいか、弱々しいとか神経質ということにはならない。テクスチュアを浮き彫りにしながら音楽をじっくりと練り上げて、盛り上がりの場面ではダイナミックにパワーを開放する。



繊細から壮大までをふところ深く描き上げる、という意味で巨匠風と言えるかもしれない。様式的な練度とか演奏のうまさはそうとうなレベルに達しているのではないだろうか。

満遍なく目配りされた演奏と思うけれど、テクスチュアをゆとりをもって精妙に響かせようとする意識が優位で、結果として活気とか鮮烈さが丸め込まれているような感じがある。部分ごとの表現には感心するし、物量的な起伏は大きいけれど、けっこう淡々と聴けてしまう、わたしの場合。

あえて言うなら、書法の精妙さが高まるこれより後の交響曲での方がセーゲルスタム流は映えるかもしれない。

シベリウス 交響曲第2番 ベルグルンド / ヨーロッパ室内管弦楽団

  1. 2012/05/22(火) 22:49:04|
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1997年のセッション録音。3つめの全集から。



ヨーロッパ室内管弦楽団という、わたし自身は馴染みが薄いけれど、かなり腕が立つらしいオーケストラとの協演。この編成の小さなオーケストラを駆って、ベルグルンドは作品の精妙さを描き尽くそうとしているように聴こえる。「魂は細部に宿る」とばかりに、書法の隅々にまでニュアンスを込めている。緻密と言うだけに止まらないおもしろさを感じる。

言い換えると、オーケストラ総体の音響とか雰囲気で作品を語ろうとはしていない、ように聴こえる。

旧録音と異なる切り口で演奏してみたということなのか、それともこの解釈が長らくシベリウスに献身してきたベルグルンドの結論なのかは分からないけれど、こちらの方が指揮者の創意や意欲がビンビン伝わってきて、聴き応えがある。



きめ細かく磨かれた個々のフレーズは、その一つ一つは滑らかだけど歯切れが強い。洗練された手つきだけれど、音楽の大きな流れやうねりを細切れに刻んでいる感じがある。
おそらく狙ってやっているのだろう。情緒的に盛り上げることより、シベリウスの書法を細やかかつ活き活きと聴かせようとしているのだと思う。

これも一つのアプローチとは思うけれど、ちょっと極端かもしれない。
特に偶数楽章は、もともとが長く深い呼吸で展開される楽曲と思う。ベルグルンドのアーティキュレーションは、楽曲の様式に則しているのだろうか?

第二楽章はパート間の継ぎ目を意識させられてしまう。アンサンブル全体が一つの呼吸でシームレスにつながらず、深い息遣いとなって響いてこない。

第四楽章後半の息の長い盛り上がりが小じんまりしているのも、同じ理由と思える。小規模な編成のオーケストラ、軽く刻まれるリズムなんかから、パワフルな昂揚を狙っていないのは理解できる。それにしても、息長く大きな波が形成されていく感じは希薄。どうなんだろう・・・

これがベルグルンドの本領だとしたら、シベリウスの作品との相性、微妙かも・・・



それでも、ベルグルンドのきめ細かな作り込みは興味深くて刺激的。シベリウスの豊かな発想を教えられるような気持ちになる。
そのことのありがたみは、わかりやすい第2交響曲より、渋みのある他の交響曲の演奏に感じ取りやすいかも。

シベリウス 交響曲第2番 セル / クリーヴランド管弦楽団

  1. 2012/05/18(金) 13:32:05|
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1970年、来日公演のライブ録音。会場の雰囲気は乏しいけれど、生々しくて克明。オーケストラのやっていることが如実に伝わってくる。



セルの残した録音をいろいろ聴いてみると、オーケストレーションに手を加えた演奏があったり、あるいは繊細感を追求したものがあったり、エキセントリックに激しいものがあったりと、多面性をうかがい知ることができる。

そんな中、この演奏は、積極的に変化がつけられているものの、楽曲の姿を精確かつ明解に表すことに徹しているように聴こえる。もちろん演奏から演奏者の色を消し去ることはできないけれど、この演奏にキャラ作りの意識は感じ取れない。

均質で透明度の高いサウンドは他者と比較したときの顕著な特徴だけど、それだって雑味を取り除いた結果のように聴こえる。
音楽を息づかせるために、緩急・強弱のコントラストを積極的につけているけれど、室内楽的なバランスを逸脱することはないし、目を引くような奇策もない。昔ながらの演奏技法を注意深く、絶妙の間合いで駆使している。

そんな風にやると普通は個性と面白味の乏しい演奏が出来上がる。だから、わたしの知る限り、スター指揮者たちのほとんどは、作品の味わいを活かしながら、独自のキャラ付けに勤しむ。
しかし、この演奏はちゃんと絵になっていて、一旦聴き始めると最後まで持って行かれてしまう。セルは楽曲をそのまんまに演奏するだけで、楽譜の読み確かさとか、オーケストラを操縦する力とか、いわば演奏の基本事項の段階において、力量の違いを見せつけている。
やっていることはごく普通のことだけど、所作の一つ一つが凛としていて、なぜだか目が離せない、みたいな感じ。



個人的に演奏者の芸格の高さを満喫するだけで充分な演奏と思うけれど、セルの作品観について触れる必要がありそう。ちょっと微妙かも。

セルは音の線的な動きを明確に顕し、緊密に連動させていく。そのやり方自体はごく穏当なのだけど(特にドイツ・オーストリア系の古典的レパートリーにおいて)、セルは線の動きを重視する傾向が特に強くて、そのぶん音響効果の扱いは簡潔になっている。

顕著なのは第四楽章後半の長大な盛り上がり。ここでもセルは、音響の厚みとか量感ではなく、アンサンブルの見通しの良さを保ったまま、合奏の緊迫感でもって昂揚させていく。
シベリウス一世一代の力技!という場面なので、わたしの感覚で言うと、もうちょっと重層的に響かせてくれた方が、らしく聴こえるのだけど・・・

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