ブルックナー 交響曲第8番 シューリヒト / シュトゥットガルト放送交響楽団

  1. 2011/04/29(金) 02:16:07|
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1954年のライブ録音。
モノラル録音だけど、リヴァーブっぽい効果が付与されているようだ。広がりが感じられて、かなり聴きやすい仕上がり。情報量が多くて見通し良好。とはいえ、心持ち効果が強すぎるようだ。再生環境によっては、スカスカ感を伴う音になる。

はじめに透明度の高い音の再生環境で聴いたときは、情報量は多いものの、薄っぺらいサウンドにひっかかって演奏を楽しめなかった。そこで、厚めの音がする再生環境に切り替えて鑑賞した。
以下の記事は後者による。

ちなみにヘンスラー盤を聴いた。

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シューリヒトは1963年にこの曲をスタジオ録音している。オーケストラはウィーン・フィル。なんといっても、第三楽章が21分42秒、第四楽章が19分41秒という速いテンポが特徴。

このテンポ感が、この楽曲に対するシューリヒトの特徴かと思いきや、シュトゥットガルト放送交響楽団との演奏は平均的な演奏時間。第三楽章が25分43秒で、第四楽章は23分29秒。楽章あたり4分前後という大きな差がある。ここまでの開きがあると、楽曲のとらえ方が違っている。

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シュトゥットガルト放送交響楽団との演奏は、テンポをけっこう変化させて積極的に演出しているけれど、トータルとしてはブルックナーの素朴でおおらかなロマン性が強く心に響く。

シューリヒトの演出は、多少あざとく聴こえるくらいだけど、あくまでもアンサンブルの中でのアクセントに止まっているし、基本的に曲調の推移に則っているので、強引さとか作り物っぽさがない。意外性もないけれど。

シューリヒトの創意工夫は、楽曲を自分の色に染め上げるためには使われず、もっぱら楽曲の可能性を引き出すために使われている、と思う。有り余る表現力の持ち主と思うけれど、この人はそれを濫用しない。楽曲を息づかせ、活気づかせるために行使している。

コンセプトとしてそのようにしているというより、そういう音楽性というか音楽観の持ち主という印象。何というか、演奏とは二次創作的な自己主張ではなく、あくまでも楽曲のポテンシャルを引き出す行為である、とでもいうような感じ。エンターティナーとしては素朴というか、地味なキャラだろう。

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シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏はかなり粗い。ミスが多いというよりこなせていない場面が多々あり、随所で合奏の呼吸が乱れている。集中して耳を傾けると、アイタタタタ・・・な局面があちこちにある。オーケストラの技量なのかもしれないけれど、指揮者としてもう少し何とかできなかったのか・・・
この時期のシュトゥットガルト放送交響楽団の力量を知らないけれど、けっこう高い頻度で客演していたようなのだけど。

これまでのところシューリヒトの演奏で機能美を味わったことがない。むしろ、オーケストラ・コントロールの点で詰めの甘さを感じることが多い。統率力の弱さなのかもしれないけれど、そもそも機能的な完成度を追い求める意識が弱いようにも感じられる。精度より活き活きとしていることを重視する、みたいなノリで。

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とはいえ、シューリヒトのやろうとしていることには深く共感できる。

演奏効果の高い楽曲だけに、この曲の演奏を聴くと、往々にして演奏者のいい意味での作為が印象に残りやすい。そんな中、シューリヒトの演奏を聴きながらまず感じたのは、「この曲は、こんな感じの音楽なのだなぁ」ということ(わたし個人の感じ方でしかないけれど・・・)。
ある意味フツーということだが、この交響曲に関しては、聴いたことのあるすべての演奏の中で(母数が多いわけではないけれど)、そんな感覚を抱いた経験は滅多になくて、そうなるとそのフツーさは普通のことではなくなる、わたしにとって。

その意味で異彩を放つとか、聴き手の心を鷲づかみにしてしまうタイプの演奏ではないと思うのだけど、場面毎の表現は融通無碍。毎度のことながら、漫然と流れる瞬間を一瞬たりとも作りたくない、という意欲にあふれている。

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個人的な最大の聞き所は、第三楽章のクライマックスにつながる一連の展開。曲調がめくるめく変化をしながら盛り上がっていく場面。誰の演奏を聴いてもそれなりにテンションがあがる場面だけど、かといって無心でノレる演奏は多くない。
シューリヒトは積極的に揺さぶり表情を変化させながら盛り上げていく。第三楽章はオーケストラもなかなか健闘している。

もっとも、やっぱりシューリヒトなので、この楽章に陶酔感とか耽美趣味を求めるとすれ違ってしまう。いろいろな工夫を仕掛けているけれど、この人の音楽の底にあるのは、作品を味わい楽しむ素直で陽性の精神と感じる。

クレンペラーは、クラシック音楽の解体者なのか?

  1. 2011/04/19(火) 04:00:36|
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先日図書館で許光俊氏の『最高のクラシック』という本を借りた。

クレンペラーの頁に目を通すと、
「恐ろしく醒めている」「恐るべき徹底した無表情である」「ひとつひとつの音をただひたすら丹念に鳴らしていくけれども、決して『大きな物語』を描き出そうとしない」「最後のハッピーエンドにすべてが収斂されてしまうのをあえて避けているようにすら思える」「単純な全体性を拒否し、個々の音のリアリティのみに賭けている」「個々の部分は実に明瞭なのだが、全体を形作るための相関関係が喪失してしまっている」「仏教的」「最後にハッピーエンドを期待する終末論的ではない」「これは大事、これは大事ではない、これはよい、これはよくないという価値基準から逃れている」

などといった指摘が並んでいる。
そして、
「本当はそれでは適切なクラシック音楽の演奏とは言えないのではないか」「もし、あなたがクレンペラーの演奏に心ひかれるようになると、ちょっとまずいかもしれない。」「クレンペラーの演奏とはクラシック音楽を解体してしまうものであり、クラシック音楽の本質をきわめてニヒルに嘲笑している演奏」「こういう演奏家は、当たり前のことながら、あまりいないのである」

というまとめ方と読んだ。

こういう引用をするとクレンペラーに対して否定的なようだが、全文を読むとそういう印象ではない。そもそもこの本のコンセプトから言って、ひとつの章を割くことは重要視している証左だろう。著者は、わかったふりをしないで、当惑を率直に表明している。

クレンペラーを長く聴いてきた者として、とても興味深く読んだ。
「精神性」「深み」「ロマン的」などという得体の知れない言葉を並べて知ったふりをされたり、「テンポが遅い」「重厚」などという聴いたまんまの特徴を書き連ねられたり、「度重なる事故を乗り越えて・・・」みたいなプロフィール紹介でお茶を濁されるのは勘弁してほしい。その点、この著者は、感じたこと、考えたことを率直に書いている、と思う。少なくともクレンペラーの頁については。

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著者が、クレンペラーの音楽のどういうところを上のように感じたのか、いちいち理解できるつもりだ。ただ、体験したことは違っている。

わたしは中学2年生から、誰の影響を受けるでもなくクラシック音楽を趣味として聴き始めた。高校生のときに、初めて特定の演奏家に入れ込んだのだけれど、その対象がクレンペラーだった。
わたしは、クレンペラーの演奏に興奮をもって聴き入り、彼の演奏を通して楽曲を理解し親しんだ(スタジオ録音のほとんどを聴いた)。

当時を思い出すと、無条件にクレンペラーの演奏を支持していたわけではない。残念に感じることはいくつもあって、それらはこの本の著者が指摘していることと重なる。
とはいえ、共感がそれらの違和感を軽々と圧倒していた。

ざっくり言うと、クレンペラーが生み出す、著者が言うところの“個々の音のリアリティ”に感応していたのだと思う。
最初はカラヤンの60年代の演奏でベートーヴェンの第五交響曲を聴いた。ピンとこなくて、しばらくしてフルトヴェングラーの録音で聴いてみた。やっぱりピンとこなかった。その後クレンペラーの演奏を聴いて、ようやく並外れた名曲であることを実感できた。それからは、カラヤンの演奏、フルトヴェングラーの演奏の良さも感じられるようになった。

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クレンペラーの章で、著者は古典派〜ロマン派の諸作品を前提に、クラシック音楽を次のように捉えている。

「クラシック音楽の作曲家はしばしば、曲の一番最後に向かって作品が収斂していくような書き方をした」「ベートーヴェンもチャイコフスキーもブルックナーもマーラーも、『最初ネチネチ、中しっとり、最後でドカーン』という曲を書いた」「もしもクラシックの曲が『物語』であるなら、悲しいところは悲しく、嬉しいところは嬉しく、悲劇なら悲劇らしく、ハッピーエンドはそれらしく、大事なところは強調して演奏されねばならないだろう。」


こうした基準に照らすと、クレンペラーの演奏は「適切なクラシック音楽の演奏とは言えない」「クラシック音楽を解体してしまうもの」「クラシック音楽の本質をきわめてニヒルに嘲笑している演奏」ということになるのだろう。

大筋で異論はないというか、そういう価値観を理解しているつもりだけれど、クレンペラーはそのことを強調しないだけで、彼の演奏から、悲しいところなのか、嬉しいところなのか、悲劇なのか、ハッピーエンドなのかははっきりと伝わってくるし、大事なところだからといって、そこを演奏者に強調されるとかえってうるさく感じる聴き手も、少数派かもしれないが、存在しているのだ。

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ここでわたしはクレンペラーが作曲家であったことを想起する。現時点でも作曲家としての名声を得られていないようであるが、作曲をする指揮者という自意識は強かったようだ。
であれば、偉大な先人の名曲を演奏するからといって、安易に自分の音楽性を捻じ曲げないだろうし、好むと好まざるとにかかわらずその音楽性が映し出されるはず。
作曲家としてのクレンペラーが『物語』に拠らない音楽を志向していたとすれば(わたしは、していたと考えるのだけれど)、彼の演奏が『物語』を持たないのはごく自然なこととなる。

そして、西洋音楽史において音楽が常に物語性を帯びていたわけではない。詳しくないけれど、近現代には脱物語の音楽が多数ありそうだし、時代をさかのぼってバロック期のバッハには非物語的な作品が多いし、中世やルネサンス期の音楽にしても物語性は音楽の要ではなかったようだ。

いやいや、浅学なわたしが理屈をこねても白々しい。
自分の楽しみ方を省みると、物語性や感情描写と別の次元で、単純な音の変化や運動の楽しさに酔っている。わたしにとって、最重要なのはそういう種類の楽しさであって、物語性や感情描写はそれを増幅させるための仕掛けのような位置付けになる。
そういう者にとっては、“個々の音のリアリティ”を追求してくれた方が心に響くし、“物語”を強調されるとむしろ表面的に感じられるのだ。たとえどんなに真に迫った“物語”であっても。

いずれにしても、クレンペラーの音楽性を突き詰めるには、その演奏を聴くだけではなく、彼の作品を聴くことも必要になりそうだ。

著者の見解に対するわたしの結論としては、著者のクラシック音楽の要件設定が、クレンペラーの演奏を語るには狭すぎただけで、彼をしてクラシック音楽の解体者とするのは言い過ぎで、せいぜい異端者というところか。

もし音楽の楽しみの根本にあるものが、音の変化や運動自体のもたらす楽しさにあると考えるなら、むしろクレンペラーのやり方こそ核心に迫っていると言えるかもしれない。
別にそのように主張するつもりはないけれど。

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理屈では上のとおりなのだけど、そうはいってもクレンペラーの演奏する古典派やロマン派の音楽が持つ特異な質感は紛れようがなく、そしてその質感を言葉で表現することはとても難しいと思う。ブログの記事を書くときに、クレンペラーの演奏を形容するのは特別に苦しくて、言葉を見つけられないままいたずらな長文になってしまう。その難しいところに、著者はなかなかいい感じに切り込んでいると思って感心したし、ヒントをもらった。だからこそ、こんな読書感想文を書きたくなった。

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著者の“個々の音のリアリティのみに賭けている”という言い方はカッコ良過ぎるような気もするが、なかなかに興味深く響いた。

1950年代中盤以降のクレンペラーの傾向として、作品の漠然としたイメージからすると(複数の演奏からくる最大公約数的印象)、音の集積度が高そうな楽曲ほど恰幅よく鳴り、それが低そうな曲(=気分とか雰囲気が先行する楽曲)は引き締って聞こえがち、と思う。
たとえば彼の演奏するベートーヴェンは、オーケストラの規模の大小は別として、音楽としてずいぶんと大柄に感じられる。そして、テンポの遅いことが目に付く。一方、ブルックナーの諸作品は気分とか雰囲気の要素が強いけれど、相対的にテンポは遅くないというかむしろ速いくらいだし、壮大というより引き締って聞こえるし、どこか素っ気無い。
また、ベートーヴェンの1つの交響曲の中でも、音符が詰まっている楽章は通例より遅く演奏され、じっくり歌わされがちな楽章はむしろ引き締って聞こえる。

クレンペラーの表現が“個々の音のリアリティ”から始まっていると考えることは、こうした特徴を理解するとっかかりになるかもしれない。

ブルックナー 交響曲第8番 カラヤン / ベルリン・フィル

  1. 2011/04/14(木) 08:37:48|
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1957年のセッション録音。ステレオ録音。
カラヤンのこの交響曲の録音は数種ある。これはベルリン・フィル常任指揮者就任(1955年)から間もない頃の録音。当時40歳代の終盤。


華美なサウンドとは別の方向で、渋くて奥行きのある音響美が追求されている。渋いといっても、鄙びた雰囲気は無く、渋いなりに洗練されているのがこの指揮者らしいかも。ブルックナーを演奏するにおいて、音響美は重要ポイントだとは思う。

カラヤンの演奏としても、他の指揮者との比較においても、相当にゆったりとしたテンポ。パート間のバランスのとれた合奏を基本にしている。音の線的な動きを克明にするやり方ではなく、ときには淡くしたり、ときにはたっぷりと響かせたりという具合に変幻自在。

サウンドの厚みとかスケール感は十分あるし、力強さもそれなりにはある。とは言え、硬い音、鋭い音、激しい音などの刺激の強い音は徹底的に排除されている。壮絶な音はしないし、畳み掛ける感じもない。艶やかで、豊かで、優美で、濁りのない音響が重視されている。

この交響曲のドラマティックな展開にもかかわらず、終始一貫して独自の響きを追求している印象。教会の音響とそれを意識したであろう録音も、滑らかで豊満な音楽の流れを強く後押ししている。静的なブルックナー像と言えそう。


その長い演奏時間の始終で聴き手を気持ちをそらせないほどに美しく魅力的な音響かというと、残念ながらそこまでの出来栄えとは思えない。教会の多層的な響きと繊細感を併せ持つサウンドに聞き惚れる瞬間はあったし、ゆったりと滑らかな進行を心地よく感じる瞬間もあった。
しかし、退屈を覚える時間帯もあった。特に第四楽章はじれてしまった。

ブルックナー 交響曲第8番 クレンペラー / ケルン放送交響楽団

  1. 2011/04/10(日) 02:39:24|
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1957年のライブ録音。Medici Mastersというレーベルで、モノラル録音ながら音質はきわめて良好。もちろんこの大曲に必要十分ではないけれど、実演を髣髴とさせてくれる水準にある。


クレンペラーのブルックナー交響曲第8番の録音というと、1970年にセッション録音されているが、第4楽章であまりにも大幅なカットが実施されている。さいわい、ケルン放送交響楽団との録音ではまともに演奏されている。

クレンペラーというとスローテンポがトレードマークのようになっている。しかし、この演奏はむしろキビキビとして聴こえるし、所要時間は相対的に短い部類に入る。というか、1970年のセッション録音にしても、この演奏よりは遅いけれど、目だって長い演奏時間ではない。

この指揮者は、音の作り方を楽曲に合わせて切り替えるくらいの柔軟さを持ち合わせているけれど(ベートーヴェンやブラームスを演奏するときと比較して、サウンドは心持ちふくよか)、かと言って音響効果任せで音楽を作り上げることはない。音符の連なりである線を組み合わせ、組み立てることで音楽を構築していく。
よって、たっぷりとした音響美を際立たせるためにゆったりとしたテンポを設定する、ということをしない。

フレージングに伸びはあるだけど、画然として折り目正しい。リズムはしっかりと刻まれる。第三楽章後半のクライマックスにつながる展開にしても、めまぐるしい曲調の変化に振られることなく、まっすぐに決然と駆け上がっていく。気分的な演出は皆無で、音楽は生々しく密度を増してもりもりと盛り上がっていく。第四楽章の美しい展開部も、美しさに浸る気配は皆無で、交響曲の展開部として毅然と表現される。

もともとムード的な表現を嫌う指揮者とは思っていたけれど、この演奏でそのことを思い知らされた感じ。

ブルックナー 交響曲第8番 フルトヴェングラー / ベルリンPO

  1. 2011/04/07(木) 02:16:24|
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1949年のライブ録音。聴いた音源はauditeのRIAS録音集。古いモノラル録音だけど音質はものすごく良い。大編成のオーケストラ演奏ながら、雰囲気はちゃんと伝わってくる。


爆演風だけど、勢いに任せているわけではなくて、むしろ計算しつくされ、練られた表現だ。
巨大さ、盛り上がりの迫力、感情表現を重視し、急加速を多用したり音の大きな楽器を重んじる結果、しばしば内声部が犠牲になり、楽曲本来の多様性をもれなくすくい取れているとは言いにくい。

第一楽章から迫力満点だけど、驚いたのは第二楽章。この畳み掛ける推進力のすさまじさは何だろう!もともと力強い音楽ではあるけれど、第二楽章で、ここまで血沸き肉踊る演奏を聴くのは初めて。

第三楽章は微妙。フルトヴェングラーはここでも急加速をガンガンやっているけれど、そのたびにそれまでの厳かな雰囲気が霧散してしまう。極めつけは楽章終盤のクライマックスに上り詰めていく怒涛の急加速。楽譜には「やや動きを加えて」の指示があるそうだけど、駆け登る疾走感を聴かせ、頂点では打楽器の野太い轟音が空気を激しく揺さぶり、それまで積み上げてきた荘重ないしは敬虔な気分の一切を吹き飛ばしてしまう。

第四楽章は変化に富む大規模な楽曲。冒頭から大迫力で、巨大さと推進力を併せ持つ進行。
しかし、劇性重視の結果、高音弦、低音弦、金管、打楽器といった音の大きな楽器主体でサウンドを構築するので、どうしても木管群などの内声部が色あせてしまう。この楽章の展開部は、力いっぱいの演奏だけど、何というか表現の彫りが浅く聴こえてしまう。
そして問題のコーダ。ここでも強烈な急加速。このコーダはけっこう技巧的に作られていると思うから、その効果を噛み締めたいところなのだけど、ギョッとしているうちに終わってしまった。が、サプライズ的な効果は抜群で、何が起こったのか繰り返し聴いて確認したくなった。フルトヴェングラーにとって、この急加速は重要なことのようだ。奇妙だけど、何か切実な感じがする。


この交響曲の演奏としての是非を云々するより、異様な印象を受ける表現だ。