ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 カイルベルト / バイロイト祝祭管弦楽団

  1. 2011/05/31(火) 23:54:45|
  2. ワーグナー 『ワルキューレ』|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

1955年のライブ録音。ステレオ録音。

古いステレオ録音ながら、鮮度の高い音質に驚嘆。50年代にバイロイトで活躍した名歌手たちを堪能したければ、最有力の録音。反則といいたいくらい。

* * *

以前の記事にも書いたとおり、わたしは純粋なオペラ好きではないし、聴き方も偏っている。歌唱を必ずしも役柄とか場面に結びつけて聴いていない。どうせドイツ語を聞き取れないし、楽器の音に近い感覚で聴いている。

たとえば、ホッターの声の力には感服するけれど、ヴォータンはホッターに限るみたいなこだわりはないし、ヴァルナイとニルソンのどっちがブリュヒルデにふさわしいか、みたいなことにも無関心。

というわけで、これは歌唱のウェイトがけっこうの高い演奏だけど、歌手について語れることはほとんどない。これといった不満を覚えなかったが、あえて言えばジークリンデ役のヴィブラートが気になったくらいか。

* * *

カイルベルトの指揮はなかなか微妙なところ。

ぎりぎりのところまで切り詰めた意欲的なアプローチのようにも聴こえるし、手堅くまとめられた職人仕事と言えなくもないような。

* * *

サウンドは強靭で引き締まっており、各パートを明解に鳴らし分けて、響きをブレンドさせない。サウンドの見通しはいいけれど、厚みとか音がうねるような効果は乏しいし、スケール感はほどほど。

各パートの表現は必要十分だけど、音楽全体は整然と進められる。聴かせどころに入っても、こぶしを効かせたりタメを作ったり、みたいなケレンは無い。感情表現が強まる場面でも、音楽の勢いに任せる程度で、積極的に煽ることをしない。

推進力は相当に強く、ときに荒々しく感じられるくらい。カイルベルトによる能動的な味付けと感じられるのはこの推進力くらいで、それ以外の面では禁欲的というか、彼なりに音楽その物に語らせようとする強い意志を感じる。演奏者による後付けの演出を廃するという意味で、カイルベルトのやり方はかなり徹底していると思う。

1950年代バイロイトというと、クナッパーツブッシュの濃厚で恣意的な『指輪』の印象が強かった。しかし実際のところは、同じ時期にカイルベルトがこんなにもクリーンで明解な『指輪』を響かせていたのだ。認識を改めなければならない。

40代で大ベテランと肩を並べて『指輪』を指揮するという大抜擢。もしかしたら、これは意欲的、野心的な演奏と言えるのかもしれない。

* * *

カイルベルトが目指す方向性はわたしの好みだけど、問題なのは、そうした彼の企みが、音楽としての楽しさ・おもしろさをもたらしていると実感しにくいこと。作品の姿をすっきりと提示できているのは確かだけど、いくつかのすっきりしたワーグナー像をすでに知っている耳からすると、新鮮さや驚きを感じるほどではないし。

その結果として、彼のコンセプトが元々持っていた負の部分、ケレン味の無さが部分的に悪い方に出てしまった、と感じる。

たとえば第一幕の前半のような、特に聴かせどころというわけではない場面では、キリリと引き締まった歌手へのサポートぶりが気持ちよい。

ところが、聴かせどころとか管弦楽のみの部分になると、いささか薄くあるいは素っ気なく聴こえる。そのために、後味としては物足りなさが残る。

最大の聴かせどころであろう「告別」にしても、ホッターの伴奏と割り切って聴けばそれなりと感じられるが、管弦楽中心に聴くと酔えない。ここの音楽は、質実剛健というだけでは物足りない、個人的に。

技量の高さを聴かせながら、酔えるほどではないし、面白味に欠けるとしたら、結論としては「手堅い演奏」ということになるのか。

* * *

この録音の存在は、他の1950年代バイロイトの録音の鑑賞にいい影響を与えてくれそう。

古いモノラル録音を通してワーグナーの楽劇の演奏を語るなんて、本当は無理のあることだ。わたし自身は無理に語っているつもりはないけれど、無意識のうちに脳内でサウンドが補完されているだけのことだろう。よって、聴いたものの感想を書いているつもりでいながら、実際には妄想したことの記録と言うべきかもしれない。

この録音を知ったことで、わずかでも脳の補完システムが正しい方向に矯正されるといいのだけれど。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 クナッパーツブッシュ / バイロイト祝祭管弦楽団 1956年

  1. 2011/05/22(日) 13:54:04|
  2. ワーグナー 『ワルキューレ』|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
1956年、バイロイト音楽祭のライブ録音。
ORFEO盤。やけに低音が分厚い録音なので、イコライザーで若干修正。歌に軸足をおいた録り方のようで、管弦楽は奥まって聴こえるけれど、それでも情報量は多い。


* * *



一貫してゆっくりとしたテンポ。ノッシノッシと進行する。速いか遅いかより、リズムの重たさが気になる。もたつく感じがあるのは第二幕の冒頭ぐらいなので、遅すぎるテンポとは感じないけれど、全体にドラマとしての起伏や緊迫感は乏しい。

サウンドをブレンドしないで、音の断面を露出し、その動きのひとつひとつに意味を込めて鳴らす。一見雄弁っぽいけれど、管弦楽の質感は生々しくてゴツゴツとしており、モノラル録音であることを念頭に置いたとしてもサウンドの色彩感は乏しく、変化に富んだ表現とは言いづらい。全曲を重苦しさ・息苦しさが支配している。
まあ、明るくも楽しくもない物語なので、調子外れということはないけれど、音楽としてのドラマ展開の点で、武骨で鈍重な印象を拭えない。


* * *



この重たいリズムだと、歌い手は演劇的な歌唱が難しいようだ。セリフというには端整な歌いっぷり。ただし欠点ということではない。こういうのもありかな、と思う。クナッパーツブッシュによるどっしりと濃密な表現に引っ張られてか、じっくりと克明に歌い上げられているので、そういう方向でのおもしろさを味わえる。

冒頭に書いた録音特性も手伝って、往年の名歌手たちの歌唱は迫力満点。特に第三幕のホッターの声や表現力には圧倒される。わたしは歌唱にさして関心のない者なので大したことを言えないけれど、クナッパーツブッシュ抜きで、歌唱のためだけに聴く価値があるかもしれない。


* * *



クナッパーツブッシュの指揮について、上のとおり鈍重で柔軟性を欠くが、生ぬるいということは全くない。むしろ、気に入る気に入らないにかかわらず、異様な空気を放っている、と感じる。

演奏自体には気迫があって、畳み掛ける勢いはないかわりに、盛り上がる場面での音楽のうねりにはただならぬ迫力がある。濁流が渦巻くようで、一概に心地よいとは言えないけれど、思わず聴き入ってしまうような、ちょっとクセになりそうな感触。いずれにしても、クナッパーツブッシュのワーグナー以外では、あんまりお目にかかれない感覚と思う。
『ワルキューレ』という芝居のドロドロした面とか、その音楽が執拗に表現する情念とか激情とシンクロして、妙な説得力を発揮している、ような気がする。


* * *



第一幕後半はゴツゴツしたり粘っこかったりで美しくない。第三幕の騎行はドスは効いているけれど格好良くない。魔の炎の音楽に解放感はなく(そもそもハッピーエンドではないけれど、聴き手を作品世界から解放する効果のある音楽)重苦しい。全般的にドラマの展開は鈍い。というように、物足りない点が少なからずある演奏。
が、やろうとしたのに力及ばなかったわけではなく、もともとそういう方向を向いている演奏ではなさそう。

抽象的な表現で恐縮だが、クナッパーツブッシュの音楽は、動的にドラマを語ることよりも、音による世界観を構築していく感じ。舞台上のドラマティックな展開を、一定の気分とか雰囲気が厚く覆っている。激しくて力強いけれど、音楽のあり方としては静的な感じがある。
そして、彼がもたらす暗いエネルギーが渦巻き噴出するような音のイメージには、創造神話における原初の混沌を連想させるところがあって、作品の世界観にハマっているような気がしないでもない。

そうだとしても、やっぱり『パルジファル』や『トリスタンイゾルデ』なんかと違って『ニーベルングの指輪』四部作は物語性が強い。世界観とともに、個々の場面ごとに場にふさわしい空気を醸してくれないと、物語は生き生きと回っていかない、と思う。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 クラウス / バイロイト祝祭管弦楽団

  1. 2011/05/19(木) 02:45:14|
  2. ワーグナー 『ワルキューレ』|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
1953年バイロイト音楽祭でのライブ録音。もちろんモノラル。

当時のライブ録音としてはいい音と思うけど、クラウスはけっこう精妙な音作りをする人のようなので、再生には気をつかう必要がありそう。しっかり低音を鳴らしてやらないと、オーケストラは奥で小じんまりとまとまってしまう。
クラウスによる管弦楽は、歌唱を圧倒することはないけれど、サウンドには広がりが感じられる。そして、ここぞというときには鋭くすさまじい追い込みを聴かせる。

* * *


1回目に聴いたときは「期待以上に良いなぁ」程度だったのが、2回、3回と聴くうちに、知る限りで最高レベルの『ワルキューレ』であるような気がしてきた。
歌唱陣に恵まれているのは間違いないけれど、この時にたまたま歌い手たちがそろって好調だったわけではなく、クラウスのバックだからこそ、彼らの魅力が引き立っているのではないだろうか。

* * *


クラウスの棒は、素晴らしく明晰で切れ味がよい。古いモノラル録音だし、演奏会場の音響特性が独特なので、正確には分からないけれど、半端でなさそうなオーラが立ち昇っている。
それでいて、機械的な感触はまったくない。動きはしなやかで響きは艶やか。総じて速いテンポでテキパキと進行するけれど、あっさり味ではなくて、ロマンの香りが立ちこめている。
速いといってもインテンポではなくて、必要となればグッとテンポを落として雰囲気作りに転ずるから、そのあたりも濃やかさに貢献しているかも。

* * *


クラウスによる管弦楽は、はっきりとしたキャラを持っていてかつ安定しているから、存在感を常に示している。しかし、音量としても表現としても歌唱を圧倒したり対立することがない。単に控えめというより、歌唱をひっくるめて音楽とかサウンドがイメージされている。
劇場指揮者としては当たり前のことのようだけど、ワーグナーの楽劇は管弦楽パートの充実度と重要性が一般の歌劇よりずっと高いから、案外とたがが外れやすい。指揮者がオーケストラをかき鳴らして歌手たちを圧倒し、歌手たちは負けじと声を張り上げて演技の余裕を失う、という構図はありがちなことだ。

たとえば第二幕。葛藤が入り乱れる重苦しい幕だけに、管弦楽は雄弁で迫力があるけれど、歌手たちは余裕を持って歌い演技していることが伝わってくる。
劇場の音響特性や音の録り方も関係しているだろうけど、クラウスは物理的に大きな音を出さなくとも迫力やら凄みを出す技を心得ているようだ。管弦楽は歌唱陣に対して控えめに振舞っているはずなのに、力強く雄弁にえぐってくる。切れ味と瞬発力の賜物か。

クライマックス、告別と魔の炎の音楽。クラウスは自在なたずなさばきで盛り上げていく。しかし、押すところ、引くところを完璧にわきまえている。管弦楽のみの部分は思い切りよく力を開放し、歌が入るとピタリと協調する。ただでさえ桁外れの表現力を持つホッターが、気持ち良さそうに歌い演じている。語っている、と形容したくなるくらいに。
どの演奏で聴いても感動的な場面だけど、この演奏は格別。それぞれが良い仕事をしているだけでなく、質の高い協同作業が感銘をより高めている、と感じる。

劇場指揮者としての職人芸に秀でているのは間違いなさそうだけど、クラウスはそこに止まっていない。そつなくまとまっているだけの音楽ではない。一貫した美意識とか洗練を感じることができる。クラウスの『ワルキューレ』と言えるものを持っている。

* * *


クラウスの演奏ぶりは熟練と手際が際立っている。オペラ指揮者として、エンターティナーとしてツボを心得まくっている。反面、体当たりの演奏がもたらすようなスリリングな興奮は乏しいかもしれない。

また、そのしなやかで艶やかな質感を、ワーグナーらしくないと感じる人がいるかもしれない。

しかし、長くて大規模なワーグナーの楽劇の演奏において、これほどまでに安定して有能な指揮官はそうそういないのではないか、と思う。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 フルトヴェングラー / ミラノ・スカラ座管弦楽団

  1. 2011/05/11(水) 15:51:16|
  2. ワーグナー 『ワルキューレ』|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
1950年のライブ録音。
一般的にみてワーグナーの楽劇の演奏を楽しめる水準の録音ではない、と思う。が、この録音については、演奏のおもしろさで聴けてしまう。

フルトヴェングラーの音楽性はワーグナーの音楽にピッタリあっていると感じる。ベートーヴェン演奏あたりでは、誇大な表現、極度のデフォルメに空々しさを覚えるが、ワーグナーではそうしたことを感じない。指揮者の個性はもちろん感じられるけれど、等身大の音楽と感じられる。
フルトヴェングラーの劇場指揮者としての適性はともかくとして、ワーグナーの音楽との相性のよさは抜群と思う。

* * *


長丁場にもかかわらず、畳み掛けるような勢いが一貫している。それでいながら、アンサンブルは明解でメリハリがしっかりしている。音楽は雄弁にドラマを語っていて、飽きさせず、弛緩しない。
サウンドも、かなりの推測が入るけれど、ワーグナーの音楽としては引き締まっていて密度濃く感じられる。ミラノ・スカラ座管弦楽団の劇場オーケストラらしい力強く切れ味のある表現力がフルトヴェングラーのアプローチにマッチしていて気持ちよい。

* * *


フルトヴェングラー+ミラノ・スカラ座管弦楽団の演奏は、ドラマティックな語りのうまさにおいて、最高レベルの演奏と思う。日頃耳を傾ける指輪の音源の中で、録音状態はもっとも劣悪だが、にもかかわらず(わたしにとって)もっとも作品を身近に感じさせてくれる演奏の一つ。

味付けはそれなりに濃いけれど、きびきびと切り変わって行くので、じっくりと浸れない。気分とか雰囲気を求めて聴くと素っ気ないくらい。
しかし、そのことがこの演奏の欠点とは思わない。1つの可能性を徹底して追求すれば、別の可能性を捨てざるを得なくなる。そういうことだと思う。
『ニーベルングの指輪』四部作はドラマ性、物語性が強い。四部作中『ワルキューレ』は情念のドラマとしての性質が強いけれど、『トリスタンとイゾルデ』や『パルジファル』ほど徹底されているわけではない。よって、気分とか雰囲気にどっぷりと浸るより、それら(気分とか雰囲気)を手際よく変化/展開させていくことに力点を置くアプローチは”あり”と思う。

行きすぎた強調は、面白い反面不自然さにつながる。適度な強調は、音楽をわかりやすくして魅力を引き立てる。上に書いたとおり、ベートーヴェンの音楽には誇張と感じられるフルトヴェングラーのやり方が、ワーグナーでは適度で好ましく聴こえる。

貧弱な録音を通して聴く限り、引き締まったキレのある表現のせいか、オーケストラの鳴らし方に壮大さを感じない(こじんまり、ということではない)。だから、名場面をピックアップして聴くと物足りないかもしれない。しかし、全曲を通して聴くと、音楽の流れに則った必要十分な迫力と大きさを感じられる。
スケールの大きな表現を好む方だと自認しているけれど、物事には限度がある。過大に大柄な表現は、反応とか切れ味の鈍さにつながり兼ねない。そういう鈍さは、『ワルキューレ』のような長ったらしい音楽では致命傷になり兼ねない、と思う。

* * *


以前の記事に書いたように、芝居としての側面に興味を持って聴いていない。そのせいか、歌手たちのキャラ付けとか声の演技には鈍感。少なくとも、しょっちゅう音を外すとか、発声が汚いとか、そういうレベルで気になる歌手はいなかった。
フラングスタートの歌唱を聴けることがこの録音の旨味のひとつであるらしいのだけど、その方面について書けることはほとんどない。よく通る声だけど力づくな感じがないのはいいと思う。

以前取り上げた『トリスタンとイゾルデ』スタジオ録音では、フルトヴェングラーがオーケストラを鳴らし過ぎて、歌手に厳しい伴奏と感じられた。こちらでも思い切りよくオーケストラを鳴らしているが、録音のせいなのか劇場の特性なのか支障を感じなかった。いずれにしてもこの貧弱な音質なので、何を言ったところで、推測にしかならない。

ワーグナー 楽劇『トリスタンとイゾルデ』 フルトヴェングラー / フィルハーモニア管弦楽団

  1. 2011/05/05(木) 23:00:00|
  2. ワーグナー 『トリスタンとイゾルデ』|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

1952年のスタジオ録音。聴いたのはEMI盤だけど、モノラルとはいえリアルな好録音。

ワーグナーの楽劇は質・量とも大規模なだけに良質のステレオ録音で楽しみたい。しかし、作品が長大なだけに、感覚的にしっくりくる演奏でなけれ聴き通せない。映像があるのならまだしも、音だけで楽しむのなら。今のところ後者の気持ちが強くて、古いモノラル録音でもさほど差し障りを感じない。 そんなわたしの感性からすると、この録音はかなりすばらしい。

* * *

たぶんわたしの楽しみ方は邪道で、場面とか情景とか心理描写などの芝居としての要素抜きで楽劇を聴く。さすがに、ストーリーの流れとか主な登場人物のことはある程度知っている。でも、個々の場面となると、舞台上にどの人物がいて、今歌っている役柄は誰で、どういう歌詞なのか、みたいに追求されるとへにゃへにゃ。 わたしの音楽の楽しみ方は、行き着くところ音の変化の妙を楽しむところにあるようだ。歌劇をほとんど嗜まないけれど、ワーグナーの楽劇は例外の1つ。純粋に音として面白い。

歌手たちの歌唱とか歌による演技には無頓着。わたしの中では、アンサンブルを形成する1構成要素にすぎない。汚い声とか音を外されると気になるけれど、イゾルデといえば○○が素晴らしいとか、ヴォータンは○○に限るというような感覚を持ち合わせていない。

* * *

わたしの中では、フルトヴェングラーというと、楽曲のポテンシャルを引き出すより、大げさな表現で聴き手を煽るエンターティナーとしてのイメージが強い。 しかし、この『トリスタンとイゾルデ』は、これまでに採り上げてきた演奏とは一味も二味も違う。誇張っぽい表現あるけれど、聴いている間にフルトヴェングラーの体臭を意識することはほとんどなくて、作品のおもしろさとか凄みがストレートに伝わってくる。堪能し、感服しました。

* * *

ベルリン・フィルでもウィーン・フィルでもなく、フィルハーモニア管弦楽団であることが、名演奏の誕生に一役かっているように感じる。 ベルリン・フィルもウィーン・フィルもすばらしいオーケストラだけど、自分たちのキャラクターを武器とし、それを前面に出してくる。また、いずれもフルトヴェングラーとはツーカーの関係にあるから、あうんの呼吸で過剰装飾しただろう。 その点、ここでのフィルハーモニア管弦楽団はキャラとして無色に近い。しかも抜群に腕が立つ。よって、機能的なアンサンブルを基調としつつ、フルトヴェングラーの濃厚でドラマティックな流儀がストレートに映し込まれている。

フルトヴェングラーも、手兵のベルリン・フィルのように鳴らそうとしないで、フィルハーモニア管弦楽団の機能的で緻密なサウンドを存分に活かしている。

フィルハーモニア管弦楽団の方がベルリン・フィルやウィーン・フィルより優れているとか、フルトヴェングラーと好相性なのかというと、一般論としてはNoだろう。ただ、この録音に関しては、両者の出会いが『トリスタンとイゾルデ』の高密度で色彩あふれる音楽にピタリとハマっている、ように聞こえる。

* * *

いずれにしても、密度の高い音楽が、力強くかつ表情豊かに、めくるめく表情を変えていくさまを言葉に表すことはできない。聴くうちに吸い込まれ、頭の中が真っ白になってしまう感じ。無心になって音楽の移り変わるさまに聴き入るのみ。

ここでのフルトヴェングラーは、スタジオ録音と言うこともあってか、一歩ひいた位置にいて、作品の有り様を表現している。聴き手を煽るようなあざとさを感じない。精魂を込めて楽曲に命を吹き込んでいる、ように聴こえる。いっつもこんな風に演奏してくれたら・・・

この作品に関して言われがちな官能性とか陶酔感は、楽曲の属性として適切に表現されているけれど、気分とか雰囲気に浸るより、音楽としての密度の高さとか多様さに打たれる面が大きい。あえていえば、気分的にはシリアスさ、緊張感が勝っていると思う。

* * *

どういうわけかオーケストラと歌手たちとのコンビネーションは悪い。歌唱込みでのサウンドがイメージされていないような鳴り方。音量の面だけでなく、表現の濃さの面でもオーケストラが強い。オーケストラは、歌唱陣おかまいなしに、ひたすら自分たちの音楽の充実に邁進している、ように聞こえる。 オーケストラが強奏する場面では、歌唱陣は吹っ飛ばされてしまう。歌唱と楽器のソロが交差する場面でさえ、ソロの楽器は「わたしの聴かせどころよ!」とばかりの雄弁さ。 録音のせいでそのように聴こえるのか、当時のフィルハーモニア管弦楽団がオペラに不慣れだったのか、フルトヴェングラーのオペラ指揮者としての力量なのか、わたしの耳が悪いのか、これだけでは判断しかねるけれど。

そんななか、ヒロインを歌うフラグスタートは、この時すでに盛りを過ぎていたらしいが、声の力でオーケストラと対等に渡り合っている。イゾルデの演技としてどうなのかは、よくわからないけれど・・・

次のページ