シベリウス 交響曲第2番 ベルグルンド / ヨーロッパ室内管弦楽団

  1. 2012/05/22(火) 22:49:04|
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1997年のセッション録音。3つめの全集から。



ヨーロッパ室内管弦楽団という、わたし自身は馴染みが薄いけれど、かなり腕が立つらしいオーケストラとの協演。この編成の小さなオーケストラを駆って、ベルグルンドは作品の精妙さを描き尽くそうとしているように聴こえる。「魂は細部に宿る」とばかりに、書法の隅々にまでニュアンスを込めている。緻密と言うだけに止まらないおもしろさを感じる。

言い換えると、オーケストラ総体の音響とか雰囲気で作品を語ろうとはしていない、ように聴こえる。

旧録音と異なる切り口で演奏してみたということなのか、それともこの解釈が長らくシベリウスに献身してきたベルグルンドの結論なのかは分からないけれど、こちらの方が指揮者の創意や意欲がビンビン伝わってきて、聴き応えがある。



きめ細かく磨かれた個々のフレーズは、その一つ一つは滑らかだけど歯切れが強い。洗練された手つきだけれど、音楽の大きな流れやうねりを細切れに刻んでいる感じがある。
おそらく狙ってやっているのだろう。情緒的に盛り上げることより、シベリウスの書法を細やかかつ活き活きと聴かせようとしているのだと思う。

これも一つのアプローチとは思うけれど、ちょっと極端かもしれない。
特に偶数楽章は、もともとが長く深い呼吸で展開される楽曲と思う。ベルグルンドのアーティキュレーションは、楽曲の様式に則しているのだろうか?

第二楽章はパート間の継ぎ目を意識させられてしまう。アンサンブル全体が一つの呼吸でシームレスにつながらず、深い息遣いとなって響いてこない。

第四楽章後半の息の長い盛り上がりが小じんまりしているのも、同じ理由と思える。小規模な編成のオーケストラ、軽く刻まれるリズムなんかから、パワフルな昂揚を狙っていないのは理解できる。それにしても、息長く大きな波が形成されていく感じは希薄。どうなんだろう・・・

これがベルグルンドの本領だとしたら、シベリウスの作品との相性、微妙かも・・・



それでも、ベルグルンドのきめ細かな作り込みは興味深くて刺激的。シベリウスの豊かな発想を教えられるような気持ちになる。
そのことのありがたみは、わかりやすい第2交響曲より、渋みのある他の交響曲の演奏に感じ取りやすいかも。

シベリウス 交響曲第2番 セル / クリーヴランド管弦楽団

  1. 2012/05/18(金) 13:32:05|
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1970年、来日公演のライブ録音。会場の雰囲気は乏しいけれど、生々しくて克明。オーケストラのやっていることが如実に伝わってくる。



セルの残した録音をいろいろ聴いてみると、オーケストレーションに手を加えた演奏があったり、あるいは繊細感を追求したものがあったり、エキセントリックに激しいものがあったりと、多面性をうかがい知ることができる。

そんな中、この演奏は、積極的に変化がつけられているものの、楽曲の姿を精確かつ明解に表すことに徹しているように聴こえる。もちろん演奏から演奏者の色を消し去ることはできないけれど、この演奏にキャラ作りの意識は感じ取れない。

均質で透明度の高いサウンドは他者と比較したときの顕著な特徴だけど、それだって雑味を取り除いた結果のように聴こえる。
音楽を息づかせるために、緩急・強弱のコントラストを積極的につけているけれど、室内楽的なバランスを逸脱することはないし、目を引くような奇策もない。昔ながらの演奏技法を注意深く、絶妙の間合いで駆使している。

そんな風にやると普通は個性と面白味の乏しい演奏が出来上がる。だから、わたしの知る限り、スター指揮者たちのほとんどは、作品の味わいを活かしながら、独自のキャラ付けに勤しむ。
しかし、この演奏はちゃんと絵になっていて、一旦聴き始めると最後まで持って行かれてしまう。セルは楽曲をそのまんまに演奏するだけで、楽譜の読み確かさとか、オーケストラを操縦する力とか、いわば演奏の基本事項の段階において、力量の違いを見せつけている。
やっていることはごく普通のことだけど、所作の一つ一つが凛としていて、なぜだか目が離せない、みたいな感じ。



個人的に演奏者の芸格の高さを満喫するだけで充分な演奏と思うけれど、セルの作品観について触れる必要がありそう。ちょっと微妙かも。

セルは音の線的な動きを明確に顕し、緊密に連動させていく。そのやり方自体はごく穏当なのだけど(特にドイツ・オーストリア系の古典的レパートリーにおいて)、セルは線の動きを重視する傾向が特に強くて、そのぶん音響効果の扱いは簡潔になっている。

顕著なのは第四楽章後半の長大な盛り上がり。ここでもセルは、音響の厚みとか量感ではなく、アンサンブルの見通しの良さを保ったまま、合奏の緊迫感でもって昂揚させていく。
シベリウス一世一代の力技!という場面なので、わたしの感覚で言うと、もうちょっと重層的に響かせてくれた方が、らしく聴こえるのだけど・・・

シベリウス 交響曲第2番 セル / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

  1. 2012/05/13(日) 12:15:16|
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1964年のセッション録音。オーケストラが一体となって鳴り響く雰囲気はよいのだけど、甘口で柔らかい音質傾向が耳につく。旧フィリップスらしい耳当たりの良さだけど、癖の強い音質傾向ではある。



セルの演奏という意識を強くして聴くと、いつもと勝手が違う感じ。
あくまでもセルなりにだけど、積極的に音楽を揺さぶって、情熱的で芯の強い音楽を作っていく。セルのものと思われる唸り声が随所に入っていて、オーケストラに鞭を入れている。

アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は、おそらくこのオーケストラとしては引き締まり気味の演奏なのだろうけれど、当然ながらセルの手兵クリーヴランド管弦楽団とはキャラ的に大きく隔たっている。暖色系の響きで、各パートの音質は均質とは言えず、そのぶん色彩感は豊か。厚みがあって、開放的に柔らかく広がる。
おそらくセルはそのあたりを心得ていて、オーケストラの馬力とカラフルな表現力を活かす方向でアプローチしている。
高弦の気迫に充ちた切り込みとか、金管の生々しい鳴りとか、能弁で風味豊かな木管とか。



確かにクリーヴランド管弦楽団を指揮するときとはちがうけれど、サウンドを引き締めて、切れとか鋭さでもって劇性を生み出すところはこの指揮者らしい。盛り上がる場面では思い切りよく畳み掛ける。アグレッシブであるぶん、オーケストラをドライブする並外れた力量が如実に伝わってくる。
音響効果やムード的な表現に流れることもない。というか、らしい響きや雰囲気への配慮はあるとしても、音楽の輪郭や音の動きを明確に響かせた上でのこと。
セルのシャープでしなやかなフレージングや小気味の良いリズムやすっきりとしたサウンドバランスなんかはシベリウス向きだと思うけれど、"北欧の抒情"的な質感や幻想性に浸れるような甘口の演奏ではない、と思う。また、スケールが小さいわけではないけれど、壮大な音響を奢る趣味は感じられない。



ただ、冒頭に書いた録音の傾向が、セルの演奏を裏切っているように聴こえる。セルは硬骨で求心的な音楽をやっているけれど、聴こえてくる音の傾向は甘くて拡散的。演奏のコンセプトと噛み合っていないし、アンサンブルの切れ味を損なっているのではないか。実演を聴いたわけではないから、想像にすぎないのだけど・・・

シベリウス 交響曲第2番 ベルグルンド / ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2012/05/10(木) 22:10:22|
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1986年のセッション録音。ベルグルンドによる3つの交響曲全集の2番目から。



動的で変化に富んだ交響曲だと思うのだけど、そういう凹凸を均して、なだらかな起伏の中で音楽を展開していく。

オーケストラの動きは機敏だけど、軽くてしなやかな音の出し方が徹底されていて、しかも総体として柔らかく広がる感覚が強い。
積極的に響きがブレンドされていて、ディテールが塗りつぶされているということではないけれど、個々のパートの輪郭はぼかされている。

一つ一つの音符の意味(込められた効果とかニュアンス)を顕すより、まず演奏コンセプトがあって、それにはめ込んで演奏されているような印象。
本場の指揮者&オーケストラの演奏ということで、その作品観こそ正当だと言われてしまうと、返す言葉はない。
それでも、演奏者サイドの趣味・趣向がこれだけ強くて、楽曲のポテンシャルを洗いざらい引き出せるとは思えない。



見方を変えると、(ホールの音響特性を含めた)ローカルな味わいが強く出ている印象。演奏の持ち味自体は抑えが利いているけれど、独自の味付けが強い。
そういう味わいとか雰囲気を楽しむ余地はあるのだろう。

ブラームス 交響曲第4番 チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2012/05/06(日) 21:46:03|
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1986年、来日公演のライブ録音。



遅いテンポに彫りの深い表情。そして鳴り渡るたっぷりとした美音。ミュンヘン時代のチェリビダッケらしいアプローチだけど、誇張と感じられる要素は案外と少ない。

テンポは他と比較してかなり遅いけれど、作品の入り組んだ書法を解きほぐして、聴き手に念を押すように響かせるためのテンポ設定と考えれば、納得できる範囲。そして、楽章単位で聴いても、全曲を俯瞰しても、遅いなりに造形は端整でバランスはとれている。
聴かせどころでタメを効かせるけれど、全体のペースが遅いために、誇張というほどには目立たない。

チェリビダッケは自分の美意識を前面に出す指揮者だけど、特定のパートを誇張したり、逆に音を剪定したりというやり方ではない。作曲者が記した音を余すことなく、とことん磨き上げることで独自の世界を形作る。
そして、チェリビダッケとこの交響曲の相性はとてもいいように感じられる。ここでも彼は遠慮なく自分流を貫いているけれど、上に書いたとおり作品イメージから乖離していないようだし、それどころか作品の緊密で洗練された書法をわかりやすく提示してくれる。

作曲者がイメージしていたのは、もっと引き締まって、流動性の強い音楽だったと想像するけれど、そのように演奏されると精妙なオーケストレーションが走馬灯のように流れてしまう。それはそれで気持ちよいのだけど、ときにはブラームスの彫琢ぶりをじっくりと堪能したくなる。
じっくりと構えたような演奏は他にもあるけれど、線の一本一本をぼってりと肥大化させて、大河ドラマっぽく滔々と流されてしまうと、(個人的には)ブラームスらしくなくなる。その点、チェリビダッケは、むしろ作品の書法の端整さ、見通しの良さを最大化させる方向に拡大している。



安全運転志向ではなく、意欲的に自分たちの音楽を仕掛けているように聴こえる。その分粗さはあるけれど、気に障るような瑕にはなっていないし、みなぎる気迫が気持ちいい。
終楽章の後半部分は技巧的で変化に富んだ音楽だけど、最後の最後でぶった切られたような後味になりがち。チェリビダッケは、音響の濁りを抑えながら、深い呼吸で一拍一拍に気合を込めるように畳み込む。勝利を歌い上げるような高揚感とは別種の、何かをやり遂げたような達成感があってスカッとする。個人的には、微妙な後味にこそブラームスらさを感じるのだけど、この演奏の気持ちよさを否定できない。



別掲の1974年盤(シュトュットガルト放送交響楽団)とは甲乙つけられない。
来日ライブの方が、表現の彫りは一段と深くなり、サウンドは厚みとスケールは増して、巨匠っぷりの良さでは圧勝かもしれない。しかし、この交響曲は重厚長大にやればやるほど良くなる、というものではないだろう。
というか、方向性に共通項はあるけれど、それぞれを聴くときには、別種の楽しみを期待する。わたしの中でこの2つの演奏は、優劣を云々するような位置関係にはない。

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