ストラヴィンスキー 『ペトルーシュカ』 ストラヴィンスキー / コロンビア交響楽団

  1. 2012/10/28(日) 15:25:38|
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1960年のセッション録音。
ストラヴィンスキーは1911年版、1947年版ともこの年に録音している。今回聴いたのは1947年版の方。
録音は優秀で、空間の広がりみたいな感覚はもうひとつだけど、録音年代を考えたら十分以上だし、それ以外の面では不満を覚えなかった。



わたしは近現代の音楽を好んで聴く方ではなく、作曲家自身の自演を聴く機会は多くない。聴くとしてもほとんどモノラル録音なので、鮮明な録音で聴くストラヴィンスキーの自演は新鮮。
ストラヴィンスキーは職業的な指揮者ではなかったようだけど、それなりに指揮活動をこなしていたようだ。『ペトルーシュカ』に関しては、1940年頃のライブ録音を聴いたことがある。

ストラヴィンスキーは演奏者による脚色を嫌ったそうで、この演奏はその考え方を地で行っている。だから、「この場面で、作曲者はこんな響きをイメージしていたのか!」というような発見や驚きはない。

気づきがあるとしたら、むしろ逆の方向に、『ペトルーシュカ』は演奏者による味付け無しで鑑賞に足る音楽として成立するように作られている、ということ。
この自作自演集のすべての演奏から同じ印象を受けるわけではない。



録音のせいもあるのだろうが、色彩を感じさせない乾いたサウンドで、各パートの輪郭がはっきりとしている。このオーケストラのさばき具合はなかなかのものだと思う。録音当時のストラヴィンスキーは70代後半だけど、もたつくことはないし、そのかわりに老境の滋味みたいな感触もない。

オーケストラを巧みに操って無彩色で均質なサウンドを引き出している、という感じではない。オーケストラに余計なことをさせない、というところか。
その気になれば色鮮やかな響きを生み出せるけれど、主義として無造作風に演奏しているのか、そもそもオーケストラを色鮮やかに響かせる腕を持ち合わせていないのか?微妙なところ。

いずれにしても、『ペトルーシュカ』1947年版に関して言うと、乾いた無機的なタッチはマイナスではない。これというような物足りなさはないし、派手に飾り立てられた演奏の後に聴くと、新鮮に聴こえるかもしれない。


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メンデルスゾーン 交響曲第3番『スコットランド』 クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

  1. 2012/10/24(水) 13:34:57|
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1960年のセッション録音。クレンペラーのセッション録音の中で、1960年前半頃の音質が、個人的には最も聴きやすい。鮮明さと空間の広がりが程よくバランスしていて、聴きやすい音と感じる。



メンデルスゾーンは存命中演奏家(指揮者)としても大きな足跡を残していて、当時忘れ去られた存在のバッハを復興させたことはしばしば言及される。
ただし、そんなに数をこなしていないけれど、メンデルスゾーンの有名曲を鑑賞していて、バッハの匂いを顕著に感じることはあまりない。

ところが、クレンペラーのこの演奏の第四楽章を聴いていると、メンデルスゾーンが対位法のすごい使い手であることがビンビンと伝わってくる。色鮮やかに躍動する立体感、とでもいうような感覚に浸ることができる。
この大ぶりで画然とした演奏が作曲者の構想に近いかは微妙だけど、メンデルスゾーン観をいい意味で大幅修正するような、画期的な表現と思う。



でも、それ以上にグッと来たのが第三楽章。この楽章のポテンシャルを出し尽くしたような演奏。

クレンペラーは、レガート奏法なんかを使ったりしないというか、音の刻み方は機械的といってもいいくらいに素っ気ないけれど、音の線的なつながりにこだわっている。歌というより抑揚を持った線として描き上げるところはこの指揮者らしいけれど、メロディ・ラインをとことん浮き彫りにする。
複数のパートが一つのフレーズを作り上げるときの呼吸のつながりは見事で、こうすることの難易度はわからないけれど、これほどの伸びやかさは滅多に耳にできないように思う。

揺らしたり、タメを作ったり、コブシを回したり、みたいな作為的な手法を用いない。リズム感とかアーティキュレーションとかの基本事項の制御でもって、音楽を息づかせている。知的なコントロールによって情緒的な奥行きを表出できることに、クレンペラーの上手さを感じる。
情緒は演奏者が盛り込むものなのか、それとも本来楽曲の中に宿っているものなのか。



クレンペラーは対位法的な楽曲やメロディアスな音楽に無類の上手さと適性を発揮する指揮者と思う。その本領を堪能できる演奏と思う。


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シューマン 交響曲第3番『ライン』 クーベリック / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2012/10/21(日) 12:23:30|
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1964年のセッション録音。録音会場はイエス・キリスト教会で、響きは多めだけど、厚みと切れを感じさせる。リアルな音で録音の古さを感じさせない。
15年後にバイエルン放送交響楽団と再録音している。



シューマンのオーケストレーションのまずさはよく言われる。
わたし自身には、突っ込んだことを言えるほどの素養はないけれど、木管が多用されているにもかかわらず、その響きの過半が埋没していることを歯がゆく感じる。

そのせいかどうか、細かく表情を作り込むよりも、濁りのない豊かな響きと流れの良い展開で気持ちよく聴かせる、というアプローチをよく耳にする。
こういう楽曲のさばき方として理にかなっていると思うけれど、そういうのはちょっと物足りない。
(現場の苦労を解しない)一般消費者としてのわたしは、シューマンのオーケストレーションが下手だとしても、それを理由に安易にまるく収めないで、シューマンの脳内に響いていたであろう音楽に迫ってほしい。



クーベリックのこの演奏は、わたしの要求を相当程度充たしてくれる。

生真面目を通り越して、硬派な感じのアプローチ。角張った感触のアンサンブルで、キリリとシューマンの書法を浮き彫りにしている。各パートのバランスは均等に近くて、内声部の線的な動きを浮き上がらせている。
室内楽的な発想が感じられて、木管の線の動きが他の声部に劣らず大切に扱われている。一見、地味なのだけど、アンサンブルのコンビネーションに意識を向けながら聴くと、なかなか多彩な表現が繰り広げられていて、聴き応えがある。

バランスは室内楽的だとしても、オーケストラのサウンドは渋くてゴツい。ホールのよく響く音響特性があいまって、恰幅のある響きに仕上がっている。
それらのおかげで、ずいぶんドイツ風の面構えになっていて、いい方向に作用しているのかもしれない。

しかし、わたしのような聴き方からすると、録音会場がイエス・キリスト教会でなければ、そして後年のような両翼配置の演奏形態であれば、内声部がより克明に響いたであろうから、正直なところ口惜しい。

再録音では、抜けの良い録音になって、かつ両翼配置だから、物理的な音としてディテールはより鮮明に聴こえる。
ただし、解釈の質も変化していて、今回採り上げているベルリン・フィル盤を補完するような演奏ではないと思う。



わたしにとっては多彩で聴き応えのある演奏だけど、他の人にとってはどうなのだろうか。
豊かな響きとか、大らかな流動感とか、そういう心地よい成分は乏しい。それどころか、剛直に聴こえるかもしれない。また、クーベリックは耳のいい指揮者と思うけれど、色彩感覚は渋い。
質実剛健なドイツ風『ライン』交響曲、という具合に短評で片付けられなければいいのだけど。

ストラヴィンスキー 『ペトルーシュカ』 ブーレーズ / クリーヴランド管弦楽団

  1. 2012/10/18(木) 16:38:00|
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1991年のセッション録音。

精緻な『ペトルーシュカ』の演奏というだけなら、珍しいものではないと思うけれど、この演奏では精緻であることが洗練された美しさに昇華されていて、演奏芸術としての格の違いを感じさせる。
いろいろな特徴のひとつに精緻さがあるというのではなく、精緻さが極められたところにのみ成立する美学、とでもいうようなものを思わせる。

すべてのパートはほとんど均等なバランスで鳴らされていて、アンサンブルは透けるように明晰。滑らかに研磨された水晶のようなサウンド。フレージングやリズムの刻みは柔らかくて、まったくひっかかることなく、清水のように流れていく。広がりのあるステージで音たちによる美しくて巧みな群舞が繰り広げられる。
だからといって、華奢ということではない。盛り上がる場面でも音が熱を帯びることはないけれど、力感とか量感は必要にして十分。

ある種の芸の境地に到達している感があって、好き嫌いを超えて、ありがたく聴くしかないような気がする。
といいながら、突き詰められた洗練が最善の結果に至るとは限らない、とも思う。

精緻であることが、楽曲の書法を浮き彫りにするための手段というより意匠になっているわけで、おまけに洗練を極めているものだから、浮き彫りにすることを通り越して偏向に至っている、と思う。
乾いた質感や、グロテスクさ、騒々しさといった、一見して心地よくない要素だって、『ペトルーシュカ』にはあると思うのだ。

演奏家が個性を発揮すればそれだけ偏りが生じて、楽曲の特性のあるものが強調され、あるものが弱められるということは、演奏芸術では当たり前のことだろう。
要は程度の問題で、この演奏では、精緻で柔軟でクリスタルな美しさ、という得難い魅力の代償にしても、ずいぶんいろいろな要素が削ぎ落とされているような気がする。

あとは、この演奏ならではの希少な美点と、失われたものの価値との比較衡量次第でしょう。


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ベートーヴェン 交響曲第3番『英雄』 テンシュテット / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2012/10/14(日) 18:07:03|
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1991年ライヴ録音。

ドラマ的に音楽を推移・展開させること、楽曲の書法を自在に精妙に響かせることが、テンシュテットの目につく特徴と思う。
(おそらく)一般的な作品イメージに近い形で、緩急、強弱、剛柔の変化を施してくるので、わかりやすい質の音楽をやる指揮者と思う。
一方、興奮や大きな身振りはあるけれど、サウンドの乱れや濁りを最小限度に止め、むしろ管弦楽を精妙に響かせることで、音楽に陰影をもたらす。

このベートーヴェンの演奏は喉頭癌発症以後のもので、やはりドラマ的な語り口調だけど、ライブ録音に期待されがちな熱気はなくて、むしろクールで陰影を漂わせる。聴衆を煽るより、己れの美学を結実させるべく一心に楽曲に向かっているような。
管弦楽の自在なさばきが顕著で、オーケストラのキャラは渋いけれど、アンサンブルは磨かれていて精妙。ただ緻密というだけではなく、手が込んでいて配合の具合は絶妙。
オーケストラのではなく、指揮者のヴィルトオジティというものを感じさせる点で、テンシュテットの価値ある記録と思う。

ただし、その手腕が英雄交響曲をおもしろく聴かせる上でどのくらい有効なのかというと、微妙なところ。

テンシュテットのマーラーがおもしろいのは、彼のドラマ的な設計によって長大で多様過ぎる楽曲がわかりやすく整理されることと、マーラーの入り組んだオーケストレーションのおかげで、テンシュテットの(オーケストラを響かせることに関しての)技巧の冴えが際立つからと思う。

一方、英雄交響曲はというと、比較的規模の大きな交響曲だけど、作品構成はもともと明解。
また、ベートーヴェンのオーケストレーションは、ちゃんと音楽にするのは難しいそうだけど、テンシュテットのヴィルトオジティをきらめかせるような派手な仕様にはなっていない(現代人の耳からすると)。
しかるべき力感とかスケール感を持ちあわせた演奏ではあるけれど、精妙な表現に向ける指揮者の強い執着は演奏全体に浸透していて、そのような質感は聴き手が英雄交響曲に求めるものとすれ違いやすいような気がする。


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