マーラー 交響曲第9番 バーンスタイン / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2013/02/18(月) 12:05:09|
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1985年のライブ録音。イスラエル・フィルのレーベルHelicon Classicsによる実録ライブ。



バーンスタインの、ただごとではない思い入れの強さが感じられるし、隅々まで感じ尽くし、考え尽くしたような音楽をやっていると思う。
それがオーケストラに強く浸透しているようで、個々のパートの表情は気持ちがこもっていて生々しい。
この指揮者の、フレーズの一つ一つに命を吹き込む力は群を抜いていると思う。



しかし、マーラーの楽想を鮮やかに再現できているかというと、いささか心許ない。

もともと、各パートの線を織り上げてひとつの大きな流れを形作る、というやりかたではなく、個々のパートをニュアンスたっぷりに鳴らして、そのすべてを聴き手に伝えるべくバランスさせる、というような響きの作り方だと思う。
(わたしの読みが正しいとして)その狙いはほぼ達せられているけれど、音と音の際(きわ)の制御に恒常的な緩さを感じる。

そのために、個々のパートの響きは透明度が高いけれど、アンサンブルの総体としては、濁りがちだったり、煤けているように聴こえる。
低音パートが暗騒音っぽく響きがちだし、対向旋律のコントラストがルーズな傾向にあると感じる。

見方を変えると、各パートの響きの連動がもうひとつなので、明確なサウンド・イメージを提示するとか、オーケストラ総体としての伸びとか広がりとかうねりを生み出すとかが、不十分と感じられる。

たとえば第一楽章中間辺り、カオスに展開される場面では、各パートの輻輳した動きが浮き上がってこないので、カオスというより混濁に近いような。
また、静けさが支配する終楽章の後半、最弱音で演奏されていても静寂には至らない。



整った美しさより、生々しく脈動させることが重視されているのは間違いなさそうだけど、決め所で鮮やかな統率を聴かせることもなく、終始淀んでいるように聴こえる。
演奏に臨む姿勢とは別に、オーケストラ・ドライブ力の弱さがあると思う。

一方、楽曲への思い入れの強さや読みの深さは非凡と感じられる。

いずれにしても、情緒的な入れ込みの強いアプローチに、淀んだ響きがあいまって、負の感情が渦巻いているような、独特の音楽になっている、と思う。

チャイコフスキー 交響曲第6番『悲愴』 チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2013/02/10(日) 22:39:25|
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1992年のライブ録音。



ホール内の空気を目一杯揺るがすような、量感たっぷりの物量型『悲愴』交響曲。
その発想に、チェリビダッケがフルトヴェングラーに連なる存在であることを認識させられる。
もっとも、これだけ巨大な響きを濁らせない"耳"の良さは、チェリビダッケならではか。

現実にどっぷりとした音響の中に身を置いてみないと、その真価を実感することは難しいのだろう。録音の音質は十分に優れているけれど、2チャンネルの再生環境で鑑賞するときは、想像で補う必要がありそう。



この演奏の非凡さは、巨大な音響をこれでもかとうねらせながら、ダブつかせることも濁らせることもなく、それどころか一貫して鮮度の高い表情を保っているところにある、と思う。

熟成を感じさせる個性的で洗練された演奏様式、それを現実の音として聴かせられる能力とか技量。そのいずれもが非凡。



こういう演奏は敬聴するしかないのだけれど、気になるところが無いわけではない。

豊麗な音響に対する意識がかなり強く感じられて、聴きようによっては、表面的な効果狙いと感じられる場面がちょいちょいある。
どこまで楽曲の生理に則った表現になっているのか。

また、チェリビダッケは巨大な音響を完全に制御しているけれど、量感たっぷりな音響ゆえの、のっぺりとして平坦な質感からは逃れられていない、ように感じる。
そのために、音楽が分かりやすくなっているとも、陰影乏しくなっているとも感じられる。
もっとも、聴き手がどこまでの精妙さや陰影を求めるのか、によるのだろう。



演奏のコンセプトがわりと極端な方向を向いているわけで、そのぶん聴き手を選びそう。
仮にこのノリに共鳴できないとしても、かつてチェリビダッケというすごい指揮者がいた、という事実を否定することはできない、と思う。

ベルリオーズ 幻想交響曲 クレンペラー / ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 (1966ライブ)

  1. 2013/02/04(月) 06:00:00|
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1966年のライブ録音。こういう楽曲なのでモノラルであることは残念。色彩感は乏しい。しかし、歴史的録音としては聴きやすくて鮮明。オーケストラのやっていることは十分に伝わってくる。

ちなみにクレンペラーは1963年にセッション録音している。
演奏時間を比較すると、ライブ録音の方が第一、第二楽章はより長く、残る三つの楽章はより短くなっている。



冒頭から一貫して気合と集中力が漲っている。厳しい造形の中に過剰なまでの表現意欲が渦巻く、という構図。1950年代の峻烈さを偲ばせる(あの当時とは一味違うけれど)。
演奏会で取り上げる以上一所懸命に演奏するのは当然のことだけど、フランス産の人気曲が、クレンペラーにとってこんなにも入れ込める楽曲であることに、妙に感心してしまった。



堅牢に区画された造形の中に、リズムやフレーズを折り目正しく配していく。リズムの刻みには手応えがあるし、フレージングには芯がある。浮遊感とか、微弱音による繊細感などは皆無。本場の指揮者が気の利いた装飾として扱うような音符も、クレンペラーは克明に鳴らそうとする。
幻想交響曲としては容赦ないくらいに硬派で、ムードとか気分の表出はまったく期待できない。

しかし、この演奏は硬直的でも鈍感でもない。
造形は厳めしいけれど、リズムやアーティキュレーションは明解で歯切れが良い。楽曲のめくるめくような展開に振られることはない。呼吸と抑揚が深くて、かつ体重移動がドンピシャリなので、ダイナミックな躍動感を味わうことができる。
そして、各パートの線や点を克明かつ生々しく浮き彫りにしている。厚みを感じさせるサウンドだけど、分厚いなりに引き締まっていて、各パートの響きが被らないようにコントロールされている。
強奏はそそり立つような、深くえぐるような強靭な鳴りっぷりで、音響のダブつきを感じさせない。



作品の構成とか書法を浮き彫りにしながら、「ここは木管の動きがポイントだよ」みたいな感じで聴きどころをズバズバと指摘してくる。
クレンペラーの演奏は平たい明解さを指向しているのではなく、彼なりに楽曲に対する洞察や解釈を大胆に盛り込んでいて、変化に富んでいる。
ただし、洞察力が駆使される範囲はかなり限定されているというか、演奏を通貫する秩序が犯されることはない。



ノリとかムードを基準にすると異形の幻想交響曲ということになりそう。こんな幻想交響曲を聴かされて何がおもしろいのだろうか?

楽曲の構成とか書法を剥き出しにしてしまうようなデリカシーを欠く(?)扱いをされてもなお、ベートーヴェンやブラームスの交響曲がそうであったように、幻想交響曲は輝きを放つ、ということを実感できるのがおもしろい、個人的には。