ブラームス 交響曲第2番 ヤング / ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2013/04/11(木) 15:21:34|
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2008年のライブ録音。
シモーネ・ヤングはオーストラリア出身の女性指揮者。2005年から音楽監督を務めるハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団との録音。



高弦のしなやかで軟らかい動き、なだらかなメリハリのつけ方なんかに繊細感を感じる。だけど、全体をひっくるめると、繊細な造りということではない。

各パートの線は太いし、総体としての響きはゆったりとしてスケール豊かに広がり、穏やかにうねる。響きの重心は低いけれど、しつこくもゴツくも重くもない。明るめの色合いで、天然素材っぽい触感を覚える。心地よい。

表情をきめ細かく作り込んでいる感じはしない。そんなに手の込んだことをやろうとしていなくて、各パートを抑揚豊かに、伸びやかに奏でさせて、全体をバランスよく、スムーズに流れるようにまとめている感じ。おおらかで自然体。



激しい表情は見当たらない。粘り成分とかパンチ力は少ない。淡白な傾向だけど、音楽の展開に即した自然な起伏は感じられる。
そんなに劇的な楽曲ではないから、作品像として穏当な範囲内と思う。

総体での響きを優先しているということかもしれないけれど、ブラームスの演奏としてはおおらか過ぎるような気がしないでもない。
少なくとも、ブラームスの書法を堪能するつもりで聴くと、おおらかさが淡白さとして、豊かな量感がだぶつきとして聴こえる危険性大。

表情の彫りが浅めだし、陰影のコントラストも控えめ。色彩的とも言いにくい。
また、終楽章のエンディングに、まくり上げるような爽快感みたいなものは乏しい。

が、耳の当たりとか雰囲気が良くて、自然体風の演奏を聴きたいとなれば、いい選択肢の一つかも。

ベートーヴェン 交響曲第3番『英雄』 ティーレマン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2013/03/27(水) 11:34:51|
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2009年のライブ録音。2008年から2009年に録音された全集から。



全般的には、対位法の立体感より、サウンドのブレンド感とか量感の変化で聴かせようとしていてるみたい。
第一楽章あたりは展開に即してテンポや調子が頻繁に切り替えられる。抑揚を演出するために、造形を崩すことを厭わない(もっとも、崩す程度はほどほど)。第四楽章は、対位法の線的な連動の妙より、重層的な音響で盛り上げて行く。

前世紀までの独墺系の先達たちが磨き上げてきた、ロマンティックで大ぶりなベートーヴェン像。そういう流儀に連なる演奏と言えそう。



音楽を揺さぶっているけれど、聴き手を煽る風ではない。アンサンブルの美観と秩序の優先度がすこぶる高いようだ。豪快とか、没入とか、燃焼みたいな形容はそぐわなさそう。統制され、磨かれた音楽と感じられる。
また、起伏の大きさとか、彫りの深さより、スムーズな流れを重視しているように聴こえる。ドラマティックというのではない。
その意味で、この演奏のロマンティックな意匠は、流儀とか作法としてやっているような感じ。聴きようによっては、お約束的というか段取り的。

個人的には、提示される作品像の新鮮味は乏しく、啓発される(作品についての気づきとか)ところはなかったけれど、伝統芸能の世界だから、継承されることの意義というのもあると思う。



各パートを肉厚かつ伸びやかに響かせ、それらを丁寧にブレンドして、総体として厚くて広がりのある響きを生み出している。
量感はあるけれど、サウンドイメージは明解で濁らず、威圧感や重苦しさを感じさせない。音のだぶつきが機動性を鈍らせることもない。

前世紀までの独墺系のテイストを継承しているけれど、ローカル色に依存することなく、普遍的に洗練されたサウンドを響かせている、と思う。

この演奏の聴き所は、作品解釈よりティーレマンのオーケストラを鳴らす手腕かもしれない。

ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』 ゲルギエフ / マリインスキー劇場管弦楽団他

  1. 2013/03/10(日) 06:00:00|
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2011〜12年のセッション録音。『ニーベルングの指環』四部作の第一弾とのこと。



ワーグナーの楽劇というと、オーケストラが生み出す音響の巨大な渦の波間で声を張り上げる歌手たち・・・という図式が頭に浮かぶ。
ゲルギエフはそういうワーグナー観の真逆を行っている、ように聴こえる。
オーケストラは、音量の点でも雄弁さの点でも、歌唱陣を圧倒することなく、対等に協調しながら楽劇を形作っていく。

オーケストラの編成が(ワーグナーにしては)コンパクトであるように聴こえる。これまで聴きなれてきた響きのバランスを基準にすると、高弦は線が細いし、低弦は薄いし、木管の露出度が高いように聴こえる。

大音響の官能は乏しいけれど、それでもこの歌唱と管弦楽のバランスにはメリットを感じる。
威圧感のない管弦楽により、音楽の風通しが良くなる。そして、歌手たちは過剰に声を張り上げる必要がない。
特に情念が重苦しく渦巻くような第二幕は、いつもより聴き通しやすいだけでなく、作品の機微が明解に浮き上がってくるような感触を覚えた。



ゲルギエフはオーケストラの響きをシェイプアップした上で、繊細かつウェットな表現を繰り広げている。

わかりやすいところで、「ヴォータンの告別」あたりは、神話的な偉容はほとんど感じられなくて、ひとりの男の悲嘆をしっとりと奏で上げていく感じ。
ゲルギエフが聴かせる細やかさは、響きの上での繊細感にとどまらず、楽曲に感傷的な相貌をもたらしている、ように感じられる。

一方、神話とかファンタジーの気分は乏しいように感じられた。
もしかしたら、情緒性とか抒情性が優先された結果、良くも悪くも"人間的"な側面が強調されすぎて、神々の物語としての偉容を殺いでいる、と言えるのかもしれない。



ゲルギエフのコンセプトは、歌唱の聴き方にも影響してくる。
たとえば、ヴォータンを演じるパーペから神々の長らしき風格を感じられないけれど、この『ワルキューレ』の中では、そういうことは問題と感じられない。むしろ、朗々と歌い上げる方が浮いてしまいそう。



奏でられる音楽自体は攻撃的ではないけれど、ゲルギエフのアプローチは大胆かもしれない。少なくとも、作品像を彼の感性で徹底的に洗い直し、作り込んでいる、と思う。
その手並みは徹底かつ洗練されていて、演奏として充実している。演奏芸術しては優れ物だろう。あとは聴き手の好み次第だろう。

マーラー 交響曲第9番 バーンスタイン / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2013/02/18(月) 12:05:09|
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1985年のライブ録音。イスラエル・フィルのレーベルHelicon Classicsによる実録ライブ。



バーンスタインの、ただごとではない思い入れの強さが感じられるし、隅々まで感じ尽くし、考え尽くしたような音楽をやっていると思う。
それがオーケストラに強く浸透しているようで、個々のパートの表情は気持ちがこもっていて生々しい。
この指揮者の、フレーズの一つ一つに命を吹き込む力は群を抜いていると思う。



しかし、マーラーの楽想を鮮やかに再現できているかというと、いささか心許ない。

もともと、各パートの線を織り上げてひとつの大きな流れを形作る、というやりかたではなく、個々のパートをニュアンスたっぷりに鳴らして、そのすべてを聴き手に伝えるべくバランスさせる、というような響きの作り方だと思う。
(わたしの読みが正しいとして)その狙いはほぼ達せられているけれど、音と音の際(きわ)の制御に恒常的な緩さを感じる。

そのために、個々のパートの響きは透明度が高いけれど、アンサンブルの総体としては、濁りがちだったり、煤けているように聴こえる。
低音パートが暗騒音っぽく響きがちだし、対向旋律のコントラストがルーズな傾向にあると感じる。

見方を変えると、各パートの響きの連動がもうひとつなので、明確なサウンド・イメージを提示するとか、オーケストラ総体としての伸びとか広がりとかうねりを生み出すとかが、不十分と感じられる。

たとえば第一楽章中間辺り、カオスに展開される場面では、各パートの輻輳した動きが浮き上がってこないので、カオスというより混濁に近いような。
また、静けさが支配する終楽章の後半、最弱音で演奏されていても静寂には至らない。



整った美しさより、生々しく脈動させることが重視されているのは間違いなさそうだけど、決め所で鮮やかな統率を聴かせることもなく、終始淀んでいるように聴こえる。
演奏に臨む姿勢とは別に、オーケストラ・ドライブ力の弱さがあると思う。

一方、楽曲への思い入れの強さや読みの深さは非凡と感じられる。

いずれにしても、情緒的な入れ込みの強いアプローチに、淀んだ響きがあいまって、負の感情が渦巻いているような、独特の音楽になっている、と思う。

チャイコフスキー 交響曲第6番『悲愴』 チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

  1. 2013/02/10(日) 22:39:25|
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1992年のライブ録音。



ホール内の空気を目一杯揺るがすような、量感たっぷりの物量型『悲愴』交響曲。
その発想に、チェリビダッケがフルトヴェングラーに連なる存在であることを認識させられる。
もっとも、これだけ巨大な響きを濁らせない"耳"の良さは、チェリビダッケならではか。

現実にどっぷりとした音響の中に身を置いてみないと、その真価を実感することは難しいのだろう。録音の音質は十分に優れているけれど、2チャンネルの再生環境で鑑賞するときは、想像で補う必要がありそう。



この演奏の非凡さは、巨大な音響をこれでもかとうねらせながら、ダブつかせることも濁らせることもなく、それどころか一貫して鮮度の高い表情を保っているところにある、と思う。

熟成を感じさせる個性的で洗練された演奏様式、それを現実の音として聴かせられる能力とか技量。そのいずれもが非凡。



こういう演奏は敬聴するしかないのだけれど、気になるところが無いわけではない。

豊麗な音響に対する意識がかなり強く感じられて、聴きようによっては、表面的な効果狙いと感じられる場面がちょいちょいある。
どこまで楽曲の生理に則った表現になっているのか。

また、チェリビダッケは巨大な音響を完全に制御しているけれど、量感たっぷりな音響ゆえの、のっぺりとして平坦な質感からは逃れられていない、ように感じる。
そのために、音楽が分かりやすくなっているとも、陰影乏しくなっているとも感じられる。
もっとも、聴き手がどこまでの精妙さや陰影を求めるのか、によるのだろう。



演奏のコンセプトがわりと極端な方向を向いているわけで、そのぶん聴き手を選びそう。
仮にこのノリに共鳴できないとしても、かつてチェリビダッケというすごい指揮者がいた、という事実を否定することはできない、と思う。

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